【連載中】ブルーレイン・イン・トゥハッタン

山猫組VS伊達組の異国ハードボイルド風パロ。
燭台切→(?)山姥切→←国広←鶴丸で、攻×攻なマウントを取り合う様なお話になると思います。
逆転する様な描写含むと思われますが、最終的にはちょぎくにです。

・仮想の街を舞台にした似非ハードボイルドパロです
・山姥切くんと南泉くんがセ〇レです
・国広くんは多重人格ではないですが、布と極が混在しています
・南泉くんの口調が特に安定していません
・基本的には山姥切=山姥切長義ですが、一部表現として国広を山姥切と表記している箇所があります。



▼CASE0 PROLOGUE

 トゥハッタン。
 湾岸部を埋め立て築かれた街だ。
 幾つもの区画で分けられた中で、とりわけ華やかな街5番街は摩天楼とも言われる。
 眠る事を忘れてしまったかの様な街は、今宵も五色の光を燦然と輝かせていた。
 もっとも、山姥切はそれを遠目に見ているだけに過ぎない。5番街から少しばかり離れた区画、13番街。湾曲した島の形状ゆえ、海を挟んで5番街を臨むことになる。
 その13番街の高層マンションを、山姥切は生活の拠点にしていた。高層マンションと言っても、所詮はダウンタウンと呼ばれる13番街である。真に残念ながら、5番街とは比較にならないということを補足しておこう。
 山姥切がそぞろに上半身を起こせば、ベッドは小さく唸った。その僅かな振動に目を覚ましたのだろうか、シーツの下がごそごそと動く。小さく呻く声。
 山姥切は動くシーツをしばらく横目に見ていたが、どうやら起こしてしまったことはないようだ。それを確認して、改めてサイドテーブルに手を伸ばした。掴んだのは、開封済みの煙草。
 山姥切が愛煙家かと言われれば、否だ。しかし、こうして気まぐれに口にすることはある。
 既に見飽きた夜景を眺めながら、山姥切は紫煙を躍らせた。くるりくるりと煙が渦を巻く間にも、時計の針はかちかち回る。
 そろそろだろう、そう山姥切が予想していた通り、控え目なノック音が響いた。どうぞ、と言った所で、扉の向こうにいる人間は入って来ないだろう。
 「終わってるから、入りなよ。」
 そう山姥切が明確な指示を与えれば、握り拳一つ程の隙間が開く。扉が完全に開くまで、十分な間があった。この部屋で行われていた行為に、遭遇することを警戒していただろうことは、手に取るように分かった。首から提げたヘッドフォンと、すっぽり被ったフードが、この部屋を訪れるまで外界を遮断していた証拠だ。
 そこで山姥切は一つ悪戯を思い付く。
 「国広。」
 山姥切が手招きをすれば、フードを被った男国広は訝し気な顔をしながらもベッドに寄ってくる。従順な態度を示されれば、山姥切も少しばかり気分が良い。
 目の前に立つフードの胸元を、山姥切は掴んで引き寄せる。顔と顔とが触れ合う程の距離だ。
 「本当はお前も俺と良いことがしたい。違うかな?」
 山姥切が吐息だけで触れてやれば、国広は眉間に皺を寄せた。丸で不機嫌に尻尾を振る猫の様だ。もう少し愛想があっても良いだろう、とは山姥切も言えない。
 「可愛い声で鳴けたら、相手をしてあげなくもないよ。」
 山姥切は挑発的な上目遣いをして見せるが、この男は易くは落ちて来ない。山姥切もよく知っている。
 国広の目深に被ったフードを、山姥切が剥いでやれば、途端柔らかく細められた碧の双眸が山姥切に向けられた。
 「望みはしない。だが、俺は与えられる物を拒むつもりはない。」
 「それがお前にとって、有益であっても、有害であっても、というつもりか。流石、牧師様だね。偽者くん。」
 「俺は、牧師でも、偽者でもない。」
 「相変わらずの減らず口には、感服するよ。」
 「ならば、俺はお前に常々敬服している。」
 「嘘が下手だね。」
 「どうだろう。」
 山姥切が皮肉って見せるも、相も変わらずどこ吹く風。敬服という言葉を用いてはいるが、それは嘘か真か。元より、何を腹の内に隠しているか分からぬ男だ。
 ふわふわと流れる雲の様に山姥切から離れた国広は、小首を傾げて大層穏やかな笑みを浮かべた。
 「お前に言われていた通り、仕事の支度は出来ている。後はお前次第だ。合図を待っている。」
 そう言い残し、山姥切から離れていく国広。その金色の髪が照らされれば、丸でエンジェルリングを戴いている様ではないか。その背中を、山姥切は小さく鼻で笑った。
 「本当にお前は、くそったれな牧師様だね。」
 山姥切の声は、既にこの部屋を出た背中には聞こえていなかっただろう。
 ごそり、動いたシーツで山姥切は、そこに寝ている存在を思い出す。まさに猫の毛の様な柔らかな髪が、シーツからひょこっりと現れた。どうやら未だ夢心地の様だ。山姥切も思わず笑みを零す。もっとも、だからと言って優しく見守る訳でもないが。
 山姥切は寝息を立てているその鼻を躊躇わず摘んでやった。
 「ほら、猫殺し君。いつまで寝てるつもりかな?」
 ふにゃっという間抜けな声を聞くまで、後数秒だろう。


▼CASE1 * years ago...

 山姥切様。
 牧師様。
 私の懺悔を聞いて下さい。

side.Y

 トゥハッタン、10番街。ビジネス街と隣接するその街は、ベッドタウンとも呼ばれている。
 橙色の街灯の下、山姥切は鈍い紅色を拭うと刃を鞘に納めた。浅く作られた湖面に浮かぶ屍は、息絶えるには未だ若過ぎるだろう。しかし、それ以上の感情を山姥切は抱かなかった。否、そうでなければ、この仕事で生計を立てることなど、出来ようか。
 僅かにずれた仮面を直そうとした時、山姥切の視界にある物が入り込む。手提げバッグに吊るされた人形。赤錆色の海に辛うじて触れなかったそれは、安っぽいプラスチックの眼で山姥切を見上げていた。
 何故だろうか、その人形を無視することが出来ず、軽く身を屈めた山姥切は人形を拾い上げる。
 手作りだろう人形は、殻を被った鳩か何かだろうか。手には本を抱え、口には百合の花をくわえている。何とも面妖な人形だ。裏返して見れば、そこには刺繍で綴られた名があった。その名を山姥切は知っている。それもそのはずだ。そこに刻まれていた名は。
 「山姥切。」
 何故、ここに己を示す名が存在しているのか。山姥切には理解も出来なければ、見当もつかなかった。しかし、だからと言って見なかったことにするには、少々薄気味悪い。
 小さく舌打ちをして、山姥切はその人形は上着のポケットに押し込んだ。
 改めて山姥切は辺りを見渡す、今は人影がなくとも、しばらくすればここを通りかかる人間も現れるだろう。長居は利口ではない。そう考えた山姥切は、今一度獲物の死を確認すると、屍に背を向けた。
 入り組んだ路地を抜け、幾らか先の通りで黄色い車体を見付けた。近付けば、その色の鮮やかさを改めて知ってしまう。無駄に見た目だけが派手過ぎて、山姥切には理解出来ないセンスだ。
 そう呆れながらも躊躇うことなく、山姥切は助手席のドアを開けて乗り込む。
 「おせぇよ。見付かるつもりか。」
 「俺はそんな下手はしないよ。猫殺し君とは、違うからね。」
 「お前、やっぱり性格最悪だ。」
 そう言った南泉は、山姥切を睨み付ける。丸で全身の毛を逆立て威嚇する猫の様だ。もっとも、その程度で萎れてやる山姥切ではない。
 「はいはい。そんなことより、猫殺し君はぶた箱に入りたいのかな。それとも、保健所かな?」
 態とらしく口角を上げた山姥切は、足を組み深くシートに深くもたれかかった。早く車を出せ、そう言わずとも、運転席の男にはこの嫌味で通じる。山姥切はそのことをよく理解していた。
 「いつか痛い目見れば良い…にゃ!」
 そう憤りながらも、南泉は車を発進させた。
 車の加速とともに、フロントガラスに写り込むオレンジ色のライト。暖かみのある街灯とは裏腹に、この街はいつだって冷淡だ。
 ふと思い出した山姥切は、ポケットに手を突っ込む。掴んで取り出したのは、あの白い鳩だ。
 「ぬいぐるみ?」
 ちらりと横目で見た南泉も見慣れぬそれに怪訝な顔をしている。
 「先程のターゲットが持っていた。」
 「は!?お前、正気か!?」
 「お前に言われるとは心外だ。せっかくだから、猫殺し君に仕事を与えてあげるよ。」
 「ぜってぇ、やらねぇから、にゃ!」
 「ははっ、そう言うと思ったよ。」
 山姥切がからからと笑って見せれば、ハンドルを握る南泉は膨れっ面をしている。ご機嫌斜めなこの猫には、後でフライドチキンでも与えてやろうかと心中笑う。
 それはさておき、山姥切は改めて人形をまじまじと見た。鳩が身に付ける殻や本の意味は丸で分からない。それでも、白百合を咥える白い鳩の姿は、善人を気取っている様にも見える。その様に、山姥切は胸くそ悪さを感じた。山姥切は決してその様な人間ではないのだから。

***

side.S

 夜明けの街に木霊するサイレンの音。静寂を切り裂いたそれに、白い鳩たちも何処に飛び去った。群がるのは、マスコミか野次馬位だろう。
 燭台切は改めて現場を見渡し、顔を歪めた。既に遺体はないが、血痕はそう容易くは消えない。アスファルトの地面に残る鈍い色を見れば、まだそこに若い女性の亡骸が残っているのではないかと錯覚してしまう。
 「こいつは随分と派手にやったな。」
 驚きだとは言わないが、この光景に鶴丸もどこか思う所があるのだろう。困った様に眉を下げて笑う鶴丸。
 確かに辺りに散らばる血の跡を表現するならば、派手という言葉が適しているだろう。しかし、それでいて遺体の損傷は首筋の傷だけだった。酷い血飛沫ではあっただろうが、遺体その物は不思議な程に綺麗な物であった。眠る様な遺体の姿が、容易に想像出来る。
 「プロだな。」
 「から坊の言う通り、こいつはプロの仕事だな。」
 二人の見解に燭台切も頷いた。
 「僕もそう思うよ。」
 首筋の脈という急所だけを確実に狙うなど、素人に出来るわけがない。何より煉瓦壁を彩る紅色で、燭台切は確信した。飛び散る赤は、丸で散りゆく桜吹雪の様ではないか。この様な芸当が出来るのは。
 「彼以外考えられないよね。」
 燭台切は、眼帯に手を添える。光を失ったその目は、あの夜のことを鮮明に覚えているのだ。

 遡ること幾年。
 燭台切がスタンドアロンに配属されて幾日も経たない夜のことだった。あの美しくも妖艶な死神に出会ったのは、本当に偶然であった。
 当時、まだ年若く自身の車を持っていなかった燭台切は、足として路面電車を利用していた。しかし、その夜は終電に乗り遅れ、致し方なしに歩いて帰るしかなかった。
 こんな格好悪い姿は、誰にも見せられない。そう心中ぼやきながら、深夜の公園に足を踏み入れたのだった。
 季節は春。満開のソメイヨシノからは、はらはらと紅涙にも似た花弁が零れ落ちる。淡い月明かりの下、朱色の煉瓦の上に広がる薄紅のなんとも見事なことか。こんな景色を独り占め出来るのならば、深夜一人歩いて帰るのも悪くはないと燭台切も思えた。
 しかし、そうして美しい情景に浸っていられたのも束の間だった。薄紅は深い色に変化する。寒緋桜よりも深い深い紅色。鮮血の桜花弁が煉瓦の地面を染め上げる。
 朧の満月は、その紅色の世界とそこに佇む一つに影を淡く照らしていた。
 燭台切はその光景を前に、言葉を失った。月明かりが浮かび上がらせる白銀の髪。仮面で目元を隠してはいるが、端正な顔立ちであることは一目で分かる。燭台切自身も容姿端麗だと誉めそやされるが、その男は燭台切のそれともまた違う美しさを持っていると思った。
 それと同時、燭台切は本能的に身構える。この男は危険だ、燭台切の本能がそう訴えた。丸腰で渡り合える相手ではない。それでいて、そう容易く見逃してくれるかと言えば、否だろう。
 夜桜の死神が動くと同時、燭台切も地面を蹴った。振り抜かれた刃を、寸前の所で回避した。しかし、それは燭台切がそう思っただけだった。鈍い色の刃が花弁を舞わせた、それが証拠だ。
 片目が訴える痛みに、燭台切は歯を食い縛る。激痛よりもそれ以上の問題があったのだ。人は唐突に片方の視力を失ったらどうなるだろうか。答えは簡単だ。
 その時、燭台切は立ってはいたが、完全に狂ってしまった距離感と平衡感覚で、走ることはおろかまともに歩くことが出来るかも怪しかった。
 無様だ、そう思いながらも、燭台切は腹をくくる。しかし、どうしたことだろう。夜桜の死神は、燭台切を一瞥すると、ひらり身を翻し走り去った。
 後に燭台切は、その理由を理解する。

 「情をかけたこと、必ず後悔させてあげるよ。」
 眼帯の下に最早痛みはない。しかし、あの恐ろしくも美しい死神は、確かに奪って行ったのだ。燭台切の片目と心を。
 「みつ坊、どうした?」、そう鶴丸に声をかけられ、燭台切は現実に引き戻される。
 煉瓦壁をもう一度よく見直して、燭台切は口を開いた。これは彼の仕事としか思えない。
 「夜桜の死神だと思うんだ。」
 「なるほど、俺達の探している化け物の一人か。みつ坊が言うなら、当たりの可能性が高いな。詳しく調べてみる価値はありそうだ。」
 鶴丸は片手の情報端末に情報を記録しながら、燭台切の意見に頷いた。鶴丸は電脳世界に精通している。本部に戻り次第、情報収集をしてくれるだろう。
 「おい。」
 燭台切が鶴丸と話している間も、現場を見て回っていた大倶利伽羅だ。その呼びかけに燭台切も鶴丸も大倶利伽羅の元へと歩み寄る。
 「どうしたの?からちゃん。」
 「これを見ろ。」
 「ただのバッグだと思うけど。これがどうかしたの?」
 大倶利伽羅の示す「これ」が分からず、燭台切は小首を傾げた。そこにあるのは、被害者のバッグであることは間違いない。真っ先に回収されなかったのは、遺体の回収が優先されたからだろう。しかし、大倶利伽羅もバッグの中身を見た訳ではなさそうだ。
 「から坊、でかしたぜ!こんな所に情報が落ちてるとはな。」
 笑う鶴丸。マスコミや野次馬の声が溢れかえり音は情報過多となっているこの環境で、鶴丸のそれを不謹慎だと咎められる者もいない。
 鶴丸には大倶利伽羅の言わんとしていることが分かったようだが、燭台切にはいまいちピンとこなかった。
 すると大倶利伽羅は一つ溜息を吐いて、バッグの一部を指さした。
 「持ち手を見ろ。」
 大倶利伽羅が示すバッグの手提げ部分を、燭台切も改めてよく見る。
 よくある手提げバッグの作りだ。それなりに年期は入っているだろうそこには、押さえつけられたような跡。
 燭台切もバッグに残るその跡に気付き、納得した。
 「ここにキーホルダーか何か提げられていたかも知れない、そういうことだね。」
 「現場から持ち去られた物がある。」
 「よし。ならば、俺は被害者が通勤に使っていた道の監視カメラ映像でも確認しようか。」
 立ち上がる鶴丸。「監視カメラが残す記憶には驚きが詰まっている」と、以前鶴丸が言っていたことを、燭台切は思い出す。
 「つるさん、公私混同はカッコ悪いよ。」
 燭台切は立ち上がると、颯爽と歩き出した白い背中に釘を指した。
 「参ったな。」と苦笑する鶴丸。燭台切は我が先輩ながら、相変わらずの自由人だと眉を寄せて笑った。

 燭台切は、今一度煉瓦壁の方を見た。
 春の夜風に吹かれて舞う満開の花弁。その桜吹雪の祝福を受けた者は、苦しむことなく眠りに就くと言う。昨晩、死神に魂を狩られた女性は、安らかに眠れただろうか。燭台切には分からない。
 「みつ坊!」
 愛称を呼ばれ、燭台切は我に返った。今ここでこうしていた所で、夜桜の死神に近付くことは出来ない。
 「置いてくぜ!」
 そう言う様に、すでに鶴丸は車に乗り込もうとしていた。運転席には大倶利伽羅の姿もある。
 「え!?二人とも早いよ。」
 本当に置いていかれることなどないだろう。しかし、万が一、鶴丸の戯れがあったら堪ったものではない。燭台切は慌てて車に向かった。

 トゥハッタンは、埋め立てで築かれた言わば水上都市だ。
 5番街を中心に現在は華やかな大都市として扱われるが、かつてはそうではなかった。13番街などは、裏社会の住人達たちが跋扈し、ヘルズタウンなどと呼ばれる程の無法地帯が存在していたのだ。人々の記憶からは最早消え去ってしまっているだろうが、彼らは確かにこの街の影で息をひそめている。
 危機感を持った警察組織は、このトゥハッタンの7番街に巨大な警察署を構え、特殊警察を配備した。
 公安X課、通称スタンドアロン。警察組織に属しながら、単独で動く特殊な小集団は、プロの犯罪者に対抗する為に作られた組織だった。

***

side.T

 緑の蔦の間から覗く白い煉瓦壁。佇む木々の隙間から柔らかな光が差し込み、いずこからか小鳥たちの歌も聞こえる。鼻を掠める芳醇な香りは、あちらこちらに咲き誇る白百合の花たちだ。もっとも、所詮は仮初の電脳空間、鳥の声を百合の香りも夢幻に過ぎない。
 緑に包まれた白の小道を、ひょろりと背の高い白鶴が行く。
 仮初の空間で、人々はアバターを纏う。仮初の世界に合わせた、仮初の姿だ。
 シルクハットを被った足の長過ぎる鶴、それが鶴丸のアバターだった。燭台切や大倶利伽羅には、格好が悪いだとか、バランスが悪いだとか、極めて不評だが鶴丸自身はこの愉快な見た目の紳士を気に入っている。
 そして、この空間も鶴丸は存外気に入っている。元は可愛い後輩の仇を見付ける為に足を踏み入れた空間ではあるが、なかなかに悪くない。美しい緑と白百合の香りに守られた空間は、ひしめき合う大都会の中にひっそりと存在している教会にも似ていた。
 「こんばんは。牧師殿。」
 鶴丸はシルクハットを取ると、長い首を下げてお辞儀をした。
 白百合に囲まれた一羽の鳩。頭に卵の殻を被り、手には本を携えた一羽。それがこの楽園の主だ。その姿から、多くの者がその人を牧師やシスターと呼んでいた。
 「牧師とシスターでは性別が異なる、人によって呼称が異なるなどおかしい」、電脳空間に大変疎い者であればそう指摘をするかも知れない。
 どの様なアバターを用いるかは、その人の自由である。よって、自身の性別と異なる性のアバターを用いる者もいる。元々性別を持たないアバターを用いる者もいる。そうなってしまえば、呼称で性別を断定することなど無意味だ。この楽園の主は後者だ。殻を被る鳩に性別は見られない。
 「こんばんは。バロン。」
 牧師が静かに瞬きをする。その様はどこか柔らかく見え、丸で聖人が慈悲深い笑みを見せているかの様にも見えた。
 この地を訪れた者は、例外なくこの聖人とこの白百合の楽園に魅了される。鶴丸とて、初めてこの地を訪れた際に警戒心を持っていなければ、万人と同じ様に牧師に魅せられていただろう。今でも完全に心を許さずにいられるのは、その人のハンドルネームがあるからだ。
 電脳空間で人はハンドルネームという仮初の名を用いる。鶴丸も白鶴男爵と名乗り、時にその一部を取りバロンと呼ばれていた。そして、この白百合の楽園の主はこう名乗っていた。

 山姥切。

 それは燭台切の片目を奪ったあの死神の名と同じだ。夜桜の死神。透き通る月の様な白銀の髪、鬼魅にも似た白い肌、美し過ぎる男は、この世の者とは思えなかった、対峙した燭台切はそう表現していた。
 アバターをまとっている為、牧師の本来の姿は分からない。しかし、鶴丸にはどうにもこの牧師がその山姥切には思えなかった。否、この牧師が夜桜の死神だとは思いたくなかったのだろうか。
 鶴丸は長過ぎる足を放り出し、階段の上に腰掛ける。
 「牧師殿。実にくだらない話だが。興味本位で聞いても良いか?」
 「どうした?何かあったのか?」
 鶴丸が尋ねれば、小首を傾げて鶴丸の顔を覗き込む牧師。鶴丸の切り出し方を不思議に思ったのだろう、きょとんとした顔をしている様に見える。それでいて、真っ直ぐに鶴丸を見詰めているのは、鶴丸の話を聞こうと言う意思があるからだろう。
 鶴丸も牧師に倣う様に、正面からその碧の目を見た。一般的な鳩の目とは異なる色、この森と同じ色の目だ。その眼は、聖人か、はたまた偽善者か。
 「もし君を訪ねる者に、自らの死を望む者がいたとしたら。君は死を与えることが出来るか?」
 「突然だな。くだらないとは言わないが。俺に求められても、俺は何も出来ない。」
 「そうだな。確かに君は言っていた。」
 「俺は受け取ることは出来ても、与えることは出来ない。もし、お前が後悔していることがあるなら、その後悔の半分を受け取ろう。」
 「その後悔を一緒に乗り越えよう、か。君はそうだったな。」
 「俺は神ではない。何かを施すことなんて出来ない。でも、話を聞くことは出来る。」
 静かに鶴丸を見詰める碧の目。殻を被った鳩は、聖母にも似ているかも知れない。昨晩この世を去った若い女性も、この聖母に救われていたのだろう。鶴丸は思った。
 「君が君で良かった。安心したぜ。」
 鶴丸は跳ねる様に立ち上がった。長い足がホッピングの様に弾む。見上げる白い鳥に、鶴丸は長い首を下げお辞儀をした。シルクハットを被り直すと、片目をつむり笑って見せる。
 「牧師殿。次はあっと驚く話を聞いて貰おう。」
 「楽しみにしている。」
 牧師の声に、小鳥たちの歌が重なる。
 鶴丸は白百合の香りに包まれながら、その楽園を後にした。

 鶴丸が瞼を開ければ、そこは無数のディスプレイに囲まれた空間だった。電子の光に照らされた無数の配線が走る部屋。ここは鶴丸も良く知る警察署の一室、さらに言えば公安X課スタンドアロンの部屋の中のさらに区切られた部屋である。
 鶴丸はいつもこの部屋で電脳空間での調査を行っていた。
 デスクの隅に置かれていたマグカップを、鶴丸は手に取る。燭台切が用意してくれたコーヒーも、すでに冷めきってしまっていた。
 冷めたコーヒーを口にしながら、鶴丸は先程プリントアウトしておいた資料を凝視する。
 資料は監視カメラの映像の一部を拡大して印刷した物だ。そこには被害者の女性が写っている。彼女のバッグに提げられた手作りだろうぬいぐるみ。頭に殻を被った鳩の様な姿をしているそれが、鶴丸の脳裏であの牧師と重なる。
 「殺してくれと頼まれたからと言って、殺すような奴じゃないな。」
 参った、そう一人苦笑して、鶴丸はデスクの端にマグカップを下ろした。

***

side.K

 鈍い色をした雲が、トゥハッタンの街に重くのしかかっていた。昨夜から降り出した雨は止むことなく、午前10時を過ぎた今もしとしとと降り続けている。
 ぽつぽつと落ちる雨音が、傘の中で反響する。左手には傘を、右手には白百合の花束を携えて、国広はその場所で息を吐いた。
 アスファルトの地面には、すでに赤い色はない。もう何時間も振り続けている冷たい雨が、紅色も悲しみも全て抱擁に流してしまったのかも知れない。そう国広は思った。
 国広は身をかがめると、雨色しか存在しない地面に、白百合の花束を置いた。ささやかな屋根を失ったそれに、雨粒が降り注ぐ。白い花弁を伝うそれは、丸で誰かが零した涙にも似ているだろうか。

 その訃報を聞いたのは昨日のことだった。何気なくつけたニュースで流れて来た情報。親しい人間でなければ、事件を知った所でどこかの誰かが死んだ程度で終わってしまう程に虚しい世界だ。しかし、流れて来る情報を聞き、先日自分を訪ねて来た人物であると国広は気付いた。
 国広は良くも悪くも普通の人間ではない。電子工学知識に優れ、電脳空間を闊歩し、時に覗き見、時に自由に操ることが出来る者。人々がウィザードと呼ぶそれに、国広も当てはまっていた。もっとも、その力を使って何か出来るなど国広は毛頭思ってもいないのだが。
 国広が出来ることと言えば、小さな電子の箱庭を作り、訪ねて来る者の話を聞く位だ。そして、事件の被害者は先日の来客であった。

 聖職者でもない国広が、十字を切ることはない。しかしながら、仮初の世界と姿とはいえ、己を救いだと言ってくれた者を弔わずにはいられなかったのだ。結局、己は無力だ、国広は改めて思い知る。
 しとしとと降る雨は、誰の涙か。雨に濡れる白百合の花束を見詰め、国広はただただ重い息を吐いた。
 「ここで殺された女性の知り合い、かな?」
 雨音に交ざる柔らかな声。どうやら思考の中に沈むあまり、人の気配に気づけなくなっていた様だ。国広は慌て立ち上がると、後ろを振り返った。
 そこに佇むのは、傘を手にした一人の男。国広の目に映ったその男は、白銀の髪に藍の双眸をした大層美しい男だった。
 白い肌はビスクドール。作り物の様なラピスラズリの瞳が、僅かに細められる。
 「不躾な発言だったね。」
 「いや、気にしないでくれ。知り合いではあるが、深い仲ではない。」
 電脳空間の知人ではあるが、実際深い仲ではない。国広が知っている情報は、電脳空間で交わした言葉とデータとしての情報でしかないのだ。この弔いは、国広の一方的な物に過ぎない。
 「俺はこれで失礼する。」
 見る限り花束などを携えてはいないが、この男も彼女の弔いにやって来た者だろう。
これ以上ここに留まるべきではない、そう考えた国広は軽く会釈をすると、男の脇を抜ける。柔らかな桜の香りが、国広の鼻を掠めた。

 一段一段とステップを上がる度に、錆びた階段は物寂し気な音を響かせる。12番街の草臥れたアパートにはよくあることだ。帰りに寄ったファストフード店の紙袋を手に、国広は見慣れた階段を上がった。
 煉瓦壁のアパートの5階、廊下の突き当りの部屋が、国広の住むアパートであった。
 傘をドアの脇に置くと、国広はポケットから鍵を取り出す。しかし、素直にはまってはくれないのが、この鍵穴である。いつもの様に角度をつけて差し込めば、がちゃがちゃと音をさせてそこに収まった。
 年期が入り歪んでしまった扉を開ければ、そこに広がるのは殺風景な空間。誰かを招く予定もなく、国広が一人で生活をするだけには十分な空間である。後ろ手に鍵を閉めて、奥の部屋へと進む。
 ファストフード店の袋を端に置きながら、国広は椅子を引くと、コンピュータの前に腰を下ろした。家を出る前に、電子の海を漂う情報の収集指示を与えていたのだ。
 「…首の動脈を一太刀で?」
 集められた情報の中で見たそれに、国広の顔は強張った。ただの暴漢が出来る芸当ではない。明らかにプロだ。
 そこで、国広はある場所へハックを行う。殺された女性が働いていた屋敷だ。
 国広は殺された女性から聞いていた。雇い主が罪を犯しており、それを黙っている様に言われている、と。女性があの箱庭を訪ねて来る様になった当初は、彼女の細やかな日常の悩みであった。しかし、先日聞いた悩みは、彼女の細やかな悩みなどという物ではなかった。
 そこで国広は先日より、密かに彼女の雇い主の情報を集めていた。彼女が解放される為の手助けが出来るかもしれないと思ったのだ。しかし、一足遅かった。

 深夜零時。
 国広はある電脳空間を訪れていた。
 電脳空間はひとえに言っても様々だ。国広が作る白百合の箱庭は一つの例に過ぎない。
 真っ赤な絨毯に華やか過ぎる装飾品。仮面で顔を隠した正装の男たちが集うこの空間は、趣味が良いとは言い難い。
 不法に入手したであろう物品のオークションが行われている様を、国広は修道女のアバターを纏い遠目に見ていた。この事実を含め一人の女性の死の真相を知った所で、国広が人を裁くことは出来ない。しかし、少しばかり灸を添えることは出来るだろう。
 司会が閉会の挨拶で場を締めくくると、次々にこの空間からアバターが消えて行く。その様子を見送りながら、国広は会場の中で最も華やかな席へ向かう。そこにふんぞり返り腰掛けていた男も、国広の存在にすぐに気付いたようだ。
 「シスター、ここは貴女の様な人間が来る場所ではない。」
 客人同様顔の半分を仮面で隠しているが、その下に歪んだ表情があるのは、国広も手に取る様に分かる。
 「なら、場所を変えよう。」
 国広は目を細める代わり、いつもよりも多めに口角を上げた。
 「俺と話をしよう。」
 国広が告げると同時、世界が一変する。
 真っ赤な絨毯も華美なばかりの装飾品もない。真っ白な空間と、その床に散らばる白百合の花。
 国広が自身の作り出した電脳空間に男を引きずり込んだのだ。突然のことに腰を抜かして驚く男に、国広は告げた。
 「俺には人を裁く力はない。」
 白百合を手に、男に一歩近づく。それに比例して、男も後ろへと後退る。すでに仮面は失われ、男は無様な顔を晒すしかない。最早、男の持つ電脳空間は国広の支配下にあるのだ。
 「俺が裁かずとも、アンタは裁かれる。」
 国広がまた一歩と近付けば、脅える様に男もさらに後退る。しかし、この鬼ごっこも長くは続かない。国広は腰を折り曲げて、男へと一本の白百合を差し出した。
 「いつか入る棺桶の予行演習にはなったか?」
 国広が告げた時には、すでに男は気を失っていた。その胸元に白百合を落とし、国広は悲しく笑った。

 「コピーキャットには、入る棺も墓もない。」

***

side.Y

 闇藍色のベルベットを、ランプの灯火が仄かに照らす。微睡む様な明かりに浮かび上がる調度品は、アンティークの家具たち。この電脳空間に築かれた洋館の主は、礼装の銀猫ロシアンブルーをアバターに纏う山姥切である。
 そして、今宵、この館に一人の来客があった。
 客人は赤い目をした兎婦人。その赤は元よりアバターが作る赤か、はたまた泣き腫らした眼か。しかし、その様なことは、山姥切に関係ない。山姥切がすべきことは、婦人のカウンセリングでも話し相手でもないのだ。
 黒猫の侍女が椅子を引けば、兎婦人は躊躇いながらも椅子に腰掛けた。
 同時に、白猫の侍女がワゴンを引いて部屋の奥から現れる。部屋と同じ闇藍色の服を纏う彼女たちは、山姥切や兎婦人の様なアバターではない。NPCと呼ばれることもある通り、あくまでこの空間を演出するための家具である。
 白猫の侍女が卓上に並べたティーカップの中で、桜の花弁がゆらゆら踊る。この紅茶も仮想でしかない。それでいて、こうして電脳空間を彩るには訳がある。
 兎婦人もこの空間にすっかり飲まれている様で、身を小さくさせて俯いた。この婦人相手ならばここまで威圧することもなかっただろう。しかし、容易に訪ねられる場所と噂されても困るので、これで良いのだ。誰にでも出来る様な仕事は、山姥切の仕事ではない。先日の仕事も、どうしてもとすがられ金を積まれたから、致し方なしに情をやったに過ぎない。それほどに、山姥切は仕事を選んでいる。
 人の足とは似ても似つかぬ灰色の毛を纏う足を、山姥切は人の様に組み替える。軽く鼻を鳴らしてみれば、ぴんと尖った髭が跳ねた。
 「さっそくだけど、貴方の依頼を聞こう。」
 山姥切が切り出せば、兎婦人はその耳の様に背中をぴんと伸ばす。
 「殺して欲しい人間がいます。」
 山姥切が右手に持ったおたまじゃくしの様なパイプ。パイプからは、ふわんふわんと白い煙が上がる。
 「ここに来て、それ以外のことをいう人間はいないかな。」
 山姥切が笑顔を見せれば、兎婦人も自分の失言に気付いたようだ。人の顔であったならば 、赤面していただろう。次の言葉を必死に探している様にも見える。
 「冷めない内にどうぞ。」
 卓上に置かれた紅茶を山姥切が勧めれば、兎婦人は先の失態を誤魔化すように笑い「頂きます。」とティーカップを手に取った。
 紅茶を一口齧っただろう兎婦人は、うっとりと目を溶かした。どうやら、桜の紅茶がお気に召したようだ。もっとも、仮想の物体で現実世界で紅茶を口に含んでいる訳ではないのだが。
 兎婦人が落ち着いたのを見計らい、山姥切は本題を切り出した。
 「貴方が死を望む人間というのは誰かな?」
 山姥切が具体的にターゲットについて尋ねれば、兎婦人の目が一瞬で変わる。先程までの柔らかなそれは成りを潜め、殺気に満ち溢れた双眸が憎いと言わんばかりに光るのだ。
 「私が殺して欲しい人間は、この男です。」
 兎婦人が一枚の写真を卓上に差し出した。
 写真が置かれたと同時、そこから電子の情報が飛び出す。
 男は1番街に屋敷を構える資産家。いくら会長とは言え、会社規模の割には羽振りが良過ぎる。黒い噂の多い男ゆえに、恨まれても致し方ないだろう。
 「この男のせいなんです。」
 絞る様に吐き出された声の主は兎婦人だ。丸で鬼女が如くその赤い目に炎を宿らせていた。
 憎い憎いという気持ちが、隠されることなく、山姥切に伝わってくる。
 「この男のせい、とは?」
 山姥切は言葉の意味を尋ねる。山姥切はカウンセラーではない。しかし、仕事を請け負う上で聞いておく必要もあるだろう。
 「理由次第では、貴方の依頼を受けられない。残念だが、色恋沙汰に関する仕事は丁重にお断りしているんだ。」
 「色恋沙汰ではありません!」
 がしゃん、と派手な音が響いたのは、兎婦人がティーカップを叩きつける様にテーブルに置いたからだ。振動で山姥切の前に置かれたティーカップの中でも、桜の花弁が眩暈を起こした様にくらくら踊る。
 「男の屋敷で使用人として妹は働いていました。妹は男に殺されたんです。男の秘密を知ってしまったから。」
 「男の秘密?」
 兎婦人の妹が知ってしまったという男の秘密は、おおよそ男の黒い噂だろう。山姥切はパイプを口にくわえ、兎婦人の答えを待った。しかし、兎婦人は首を横に振り、俯くばかり。
 「私も秘密の内容は知りません。私を巻き込んではいけないと、妹は教えてくれませんでした。その秘密を答えられなければ、この依頼は受けて頂けませんか?」
 「いや、貴方の仕事を受けよう。」
 パイプを口から離し、山姥切はピンとはねた猫の髭を一撫でしてみせる。
 驚いた様に顔を上げる兎婦人。兎のアバターに人の様な表情はないが、依頼が受け入れられたことに安堵している様であった。
 黒猫の侍女が卓上に一枚の書類を置く。この依頼の契約書だ。そこには依頼の内容とそれによって発生する報酬について記されている。
 「貴方がサインをした時点で、契約は成立だよ。」
 依頼書をじっと見つめていた兎婦人は、赤い目を丸くする。兎婦人がその様な反応を示すことを、山姥切は分かっていた。
 「この金額は、間違いではありませんか?」
 「書類に誤りはないよ。サインをするかどうかは貴女次第だ。」
 山姥切が示した書類、そこには僅かばかりの金額が記されていた。
 この金額であれば、兎婦人でも十分に支払うことが出来るだろう。山姥切はそう考えてこの金額を提示したのだ。
 山姥切はこの婦人からの報酬など元より期待していない。慈悲を与えたのだ。然し、無償では契約として成立しない。だから、少額を提示したまでである。
 今一度、書類を確認した兎婦人は、右手を広げる。その小さな掌に現れたのは、一本のペンだ。彼女は、そのペンでさらさらと書類にサインを書き始めた。
 山姥切は婦人がサインを書き終えるのを静かに見守った。
 サインを記入する兎婦人からは、丸で躊躇いは感じられない。それ程までに男を憎んでいるのだろうか、はたまた自ら手を下す訳ではない為に実感がないのだろうか。どちらにせよ、山姥切には関係のない話である。
 兎夫人がその手からペンを消したのを合図に、ぱらぱらと書類は姿を消した。いや、電子情報として取得した山姥切が、紙としての形状が不要になったそれを無形化したのだ。
 「無事、契約は成立だね。さて、今夜はもう遅い。貴方も早くお休みになられた方が良いだろう。」
 「えぇ、そうさせて頂きます。」
 山姥切が目配せをすれば、部屋の端に控えていた猫の侍女たちが、テーブルの周りにやって来る。婦人の座る椅子を侍女が引けば、兎婦人は立ち上がり会釈をした。
 「どうかよろしくお願い致します。」
 「俺に失敗は有り得ないよ。」
 「ふふっ、そうですね。それでは、良い夢を。」
 口元を隠し笑った兎婦人は、そう言い残し電脳空間から立ち去った。
 完全に婦人の気配がなくなったことを確認し、山姥切は椅子から立ち上がる。客人がいなくなった今、侍女に椅子を引かせるなど見栄は不要だ。
 山姥切は部屋の奥へと足を向ける。深い藍色のカーテンを捲れば、木製の扉が一つ。それはこの部屋の出口であるが、電脳空間の出口ではない。
 この電脳空間の屋敷は、複数の部屋を持っている。兎婦人を迎えた部屋は、この電脳空間の一室、ゲストルームに過ぎない。
 ゲストルームを出ると、同じ色の廊下に続いている。山姥切は廊下に出ると同時に、アバターの容姿を変えた。先程までの礼服の猫ではない。顔には仮面を被っているものの、その姿は山姥切その物である。
 山姥切は部屋を出て、右に足先を向けた。
 黒い革靴の足は、猫の足とは丸で違う。それでも、廊下に足音が響かないのは、廊下にも同じ様に重厚な絨毯が敷かれているからだ。
 黒いドアを二つ通り過ぎた所で、山姥切は足を止める。そこにあるのは、他とは違う白いドア。ドアノブには、花と鳥で飾られたプレートが提げられている。この館の主山姥切が提げた物だ。9216、殺風景なその文字も愛らしく飾られれば、可愛らしい子供部屋のそれにも見えるだろう。
 山姥切はそっとドアを開けた。そこは先程までの空間とは、真逆とも言えるだろう。白い壁に白い天蓋付きのベッド。部屋の端には白百合の花が飾られ、愛らしい絵が描かれた箱からは色とりどりのおもちゃたちが顔を覗かせている。ここは、子供部屋だった。
 「ただいま。」
 山姥切の声を合図に、部屋の端で本を読んでいた子は、山姥切目掛けて駆けて来る。豊穣を司る金色の髪、恵の大地を模した瞳。妖精王と女王が取り合ったという子は、この様な姿をしているのだろう。
 小さな両手で山姥切の足に抱き着く子。山姥切はその子を抱き上げると、幼い顔を覗き込んで尋ねた。
 「良い子に留守番出来たかな?」
 莞爾した子は、こくりと小さな頭で頷いた。この子に音はない。そう作られていることを、山姥切は知っている。
 「よく出来ました。花丸をあげよう。」
 山姥切が褒めてやれば、その子は無邪気な笑顔で山姥切の胸に頬を寄せた。金色の頭を山姥切は己の頭で撫でてやる。金と銀とが混ざり合う様は、繊細な装飾品の様に見えるだろうか。
 山姥切が頭を離すと、小さな口が目一杯に開かれる。とろんと熱したチーズの様に溶ける緑色の双眸。どうやらお眠の様だ。
 小さな体を抱いたまま、山姥切はベッドの前に移動する。上品なレースがあしらわれた真っ白なベッドに、山姥切は小さな体を下ろした。しかし、手を放そうとすれば、小さな頭が今度は横に振られた。金色の髪がいやいやと主張する様に、山姥切も小さく笑みを零す。
 「もうお休みの時間だよ。夜しっかり寝ない子は、大きくなれないよ。」
 「だから、もうお休み。」、そう山姥切が優しく諭してやれば、小さな手は寂しそうに離れていった。
 羽毛の入った柔らかな布団を引き寄せると、山姥切はその子にそっとかけてやる。
 山姥切が金色の髪を撫でてやれば、またとろりと深緑の緑が溶ける。先程は溶け切ってしまう寸前で留まっていたが、今度は完全に溶けてしまった様だ。
 「うん、お前は良い子だよ。きっと良い大人になれる。」
 ベッドの端にあった銀色の毛をしたテディベアを、山姥切は手に取ると、小さな体の横に寝かせてやる。このくまは、この子の大切な親友だ。
 「おやすみ。9216。」
 すやすやと眠る子を前に、山姥切も瞳を閉じた。

 山姥切が瞼を上げれば、目の前にはコンピュータ。重厚感漂う屋敷とは異なる、小さな部屋だ。そこは山姥切の本来の部屋であった。電脳空間から現実の世界に戻って来たのだ。
 幼い寝顔を思い出し、山姥切は一人溜息を吐いた。
 「俺はあの男とは違うよ。」
 決して己の性欲の為に、あの幼い子を囲っているのではない。山姥切は己をそう肯定する。山姥切は何者にも憶することがない。もし、憶する者があるとすれば、己自身だ。かつて、幼い山姥切の前に現れた一人の男、あの男の様な野獣になってしまうことを、山姥切は恐れているのだろう。
 「9216。あの屋敷から解放されたお前は、今どこにいるのかな?」

  ***

side.S

 身の丈ほどもあるガラス窓の向こうには、雨に濡れるトゥハッタンの夜の街。
 この街の警察署が置かれているのは、7番街である。10番街ほどの高層ビルが見られないここでは、警察署から7番街全体を見渡すことも出来た。
 燭台切は、この喫煙所から眺める夜の街、特に雨に飾られたそれを好んでいた。7番街の様な華やかさはないが、哀愁に隠れた艶は場末酒場の女店主にも似ているだろう。
 いつもならば愛しささえ感じる景色だが、燭台切は今それを愛でる様な気持ちになれなかった。
 燭台切が、灰皿の端で煙草を叩くと、パラパラと白い残骸が落ちて行く。この街では人も同じ。少しの刺激で、居場所を失い溢れ落ちてしまう。
 被害者の女性は、資産家の家で使用人として働いていた。しかし、特別目立った経歴のある人間ではなかった。人である以上、怨恨が皆無かと言えば否だが、殺しのプロを差し向けられる程の人間でもないだろう。極めて平凡な女性だった。
 嗚呼と燭台切が溜め息を吐いたと同時であった。
 「その様子だと、ろくな進展はないようだな。」
 「長谷部君。」
 燭台切が声の方に目をやれば、そこに居たのは長谷部だった。眉間に寄せられた皺と、への字に曲げられた口はいつもと寸分の狂いがない。一件、職務が難航している様に見えるが、そうではない。ストイック過ぎる程勤勉な長谷部がこうして喫煙所に足を伸ばしているということが、彼の抱える仕事に一つの区切りがついたという証拠だ。
 「長谷部君の方は、順調みたいだね。」
 「引っ張ってきた男がクローン所持は、おおむね認めた。」
 そう答えベンチに腰かけた長谷部だが、不服を感じている様だ。上着の内ポケットから煙草を出したその仕草で、燭台切はそれを察した。
 燭台切は長谷部の隣に腰を下ろすと、己のジッポライターの火を差し出す。ちらりと視線を寄越した長谷部に、燭台切は眉を下げて笑った。
 薄暗い喫煙所を照らす小さな火に、煙草の先が触れれば、ぽっと仄かな灯りが点り、ゆるりゆるりと紫煙は昇る。
 「奴はクローン所持については認めたが、入手経路をまだ吐かない。」
 「本人が作っていた訳じゃないんだね。」
 「奴にはそれ程の施設と技術者を抱えられる程の経済力はない。裏ルートでの購入だけで精一杯だろう。」
 大きく溜め息を吐く長谷部。燭台切が視線を壁に移せば、そこにはポスターが貼られていた。
 ポスターに掲げられた文字は「クローン根絶」。
 この国では、クローンの製造、取引、所持の全てが禁止されている。クローンを作ることは当然ながら、クローンの元になる人間への侮辱に値する。それだけに留まらず。精巧に作られたクローンは人間と遜色ない、つまり元となった人間に成り代わることも出来てしまうのだ。クローンは人権の侵害以外の何物でもない。ゆえに、クローンは、技術の発展に伴う負の遺産とも言われている。
 そして、それを取り締まるのが、長谷部が所属する部署であった。異なる部署の為、燭台切も多くは知らないが、クローンに関する検挙数は増加傾向にある様だ。それに比例して、クローンが起こす事件も増加、目に余るような事件も多い。
 随分と昔、まだ学生の頃だったが、燭台切もそう遠くはない血縁に被害者がいた。ゆえに、最近増加する事件についても完全な他人事とは思えなかった。
 「押収したクローンは?知能があるクローンなら、何か知ってるんじゃないかな?」
 既に長谷部が聴取しているだろうが、燭台切はそう言葉にせずにはいられなかった。
 喫煙所に流れる空気は、張りつめた静寂。長谷部は、煙草をくわえたまま何も語らない。
 「長谷部君?」
 燭台切がそう呼び掛ける声に重なったのは、こちらへ近付いてくる足音。軽快とは言えないが、しっかりとした重みのある足音は男性の物だろう。
 長谷部が口を開かぬ以上、燭台切も次の言葉を投げようがない。足音に耳を傾けていれば、それはピタリと喫煙所の前で止まった。
 「へし切ぃ。」
 ドアを開け、ふざけた口調で長谷部をそう呼ぶ男を燭台切も知っている。長谷部と同部署に所属する日本号だ。
 「長谷部だ。」といつも眉間に皺を寄せ訂正する長谷部だが、この時は違った。灰皿で煙草の火をあっさりと消した長谷部。その長谷部が向ける目線の先にあった物に、燭台切は咄嗟に笑みを浮かべ手を振った。
 日本号が腕に抱えていたのは、齢五つにも満たぬだろう少女であった。
 燭台切と目が合った少女は、隠れる様に日本号の胸に顔を埋めてしまう。可愛らしい物である。
 少女が何かしら事件に巻き込まれ、保護されたのだろうということは予想出来たが、それを詮索する程燭台切は無粋な男ではない。
 日本号の腕の中に隠れながら、可愛らしい団栗眼がこちらに向けられる。それは燭台切に注がれる物ではない。
 「長谷部のおじちゃんが良いんだと。」
 態とだろう、日本号は一度腕の中の少女に目線を落としてから、長谷部へと笑みを向けた。にっと歯を見せた笑顔は、鶴丸とは異なるが、この男も一筋縄ではいかない食わせ物だ。
 「なぁ、嬢ちゃん。」とは、少女をあやすように腕の中で跳ねさせた日本号の追撃だ。
 「仕事に戻る。」
 短く告げて、長谷部は立ち上がった。日本号だけならばまだしも、幼い少女の純粋な瞳には勝てなかった様だ。
 長谷部は口では仕事に戻ると言った。しかし、実質この幼い少女の子守りになってしまうだろうことは、長谷部にも目に見えているだろう。その証拠に、長谷部が日本号に歩み寄れば、少女は寂しかったと言わんばかりに長谷部へ両手を伸ばした。
 その微笑ましい光景を、燭台切は笑顔で見送る。両親が健在であれば、少女は正しく両親の元に帰されるだろう。万が一、クローン事件で両親を喪っていたとしても、設備の整った施設で不自由なく生活出来るはずだ。
 燭台切はふぅと息を吐く。薄暗がりの中で、紫煙はふわふわ海月の様に漂った。その煙の向こうに、燭台切は遠い過去を思い出す。まだ燭台切が学生だった頃の話だ。
 自分では声を大にして言えないが、燭台切の家は言うなれば資産家の家系だった。それは直系だけではなく、遠い親戚も例外ではなかった。密な付き合いがあった訳ではない。しかし、遠い親戚の屋敷が燃え、そこに事件性があったと聞けば、記憶にも色濃く残る。
 親戚の男は、広い屋敷に、息子と二人暮らしだった。しかし、焼け跡から見つかったのは、成人男性の物が一つ。三日三晩と捜索は行われたが、ついには彼の亡骸は見付からなかった。そして、もう一つ見付からなかった物があった。当時は法律での明記がなかった物、男が所有していただろうクローンだ。
 当時の警察は姿を消したクローンを疑っていた。それは燭台切も同じである。未解決事件として世間から忘れ去られてしまったが、燭台切にとっては未だ忘れる事の出来ない事件だった。
 短い電子音が、燭台切の胸ポケットから響く。
 思考の海を漂っている内に、随分と短くなってしまった煙草。燭台切はその残り火を灰皿の端で揉み消すと、代わりに内ポケットに手を伸ばす。
 煌々と光を放つそれは、同部署の男からの呼び出しだった。
 自分がこうして物思いに耽っている間、仲間たちが有力な情報を掴んでくれたのかも知れない。そう思うと、燭台切は申し訳なくも、仲間たちに感謝した。
 過去の事件を忘れた訳ではないが、やはり燭台切の心を捕らえ続けるのは、夜桜の死神だった。

***

side.T

 RGBで彩られた電子写真とそこに添えられた文書を前に、鶴丸は頭を掻いた。
 厳重な警備がされた情報区間に意図も容易く入り込んだ電脳の魔法使いは、一寸の足跡も残さず、代わりに重大な情報だけを残していったのだ。もたらされた情報を脇に置いておくことは出来ないが、電脳の魔法使いは後の禍根となりかねない。
 この部屋を離れる際に燭台切が置いてくれた珈琲も、机の端ですっかり冷めてしまっているだろう。これは参ったと、鶴丸が伸びをしたと同時だった。
 「つるさん。」
 「何か分かったか?」
 足音に続く声に、鶴丸がくるりと椅子を回転させれば、そこには燭台切と大倶利伽羅の姿があった。休憩に出ていた二人を、鶴丸が急遽呼び出したのだ。
 魔法使いのことも気がかりではあるが、順序だてするならば、こちらが先だろう。そう判断した鶴丸は二人にも画面が見える様に、キャスター付きの椅子を横に滑らせる。
 「ガセかも知れんが、情報提供があったぜ。」
 そう鶴丸が示した画面に記されていた情報。それを見た燭台切は、眉間に皺を寄せて難しい顔をした。それもそのはずである。
 「クローン取引に関する情報なら、急いで長谷部君たちに知らせた方が良いんじゃないかな?」
 画面に記されていた情報は、ある資産家が裏で行っているクローン取引についてだ。これが正規の方法で届けられた情報であれば、専門部署に引き渡すのが正しいだろう。
 「この情報はハッカーが置いて行った物だ。信ぴょう性は分からん。」
 「下手にスタンドアロンの電脳空間にハッカーが侵入したと言えば、余計な混乱が起こる。」
 大倶利伽羅がそう指摘をすれば、燭台切も「確かにそうだね。」と頷く。確証のない情報を共有することによるメリットとデメリット。大倶利伽羅の言う通り、今はデメリットの方が大きいだろう。鶴丸も魔法使いについては、スタンドアロンとサイバー犯罪に特化した部署で秘密裏に処理をしようとしていた。
 「どうして、そのハッカーはスタンドアロンの電脳空間に侵入しようとしたのかな?」
 「それが俺にもさっぱり分からん。」
 なぜ電脳の魔法使いはスタンドアロンなどと呼ばれる通常のより侵入が難しいであろう、何よりリスクの大きな場所へと侵入したのか、鶴丸も甚だ疑問であった。
 「確かにハッカーと呼ばれる人間には、自身の実力を試したい、己の存在を誇示したい。そういう欲求があって、より難易度の高い場所に侵入を試みる奴もいるが。」
 そう話しつつも、鶴丸は言葉を濁らせる。侵入が目的ならば、クローン取引に関する情報を残す必要などないだろう。単に腕試しや存在誇示の為の侵入にしては、少々腑に落ちない所が、鶴丸にはあった。
 「被害者の勤務先か。被害者は資産家の屋敷の使用人だった。」
 大倶利伽羅であった。鶴丸と燭台切がハッカーについて思考している間、大倶利伽羅は半信半疑で画面の情報に目を通していた様だ。
 大倶利伽羅の言葉に、鶴丸はハッとして思わず立ち上がる。何気なく言った言葉の様だが、それは鶴丸にとって丸で天恵であった。
 「なるほど、この情報が真であれば、全て辻褄が合うな!」
 「つるさん?辻褄が合うってどういうこと?」
 目を丸くする燭台切。鶴丸はその肩をとんと叩くと、ディスプレイの前へと移動した。
 鶴丸がディスプレイの頭に腕を乗せれば、燭台切と大倶利伽羅の視線はそちらに向けられる。
 「仮にこの情報の通り、資産家の男がクローン取引を行っているとしよう。資産家の男と被害者の関係性は?」
 「屋敷の主人と使用人だけど、どうしてそんなことを?」
 「使用人が屋敷のことを知っているのは、ごく自然なことじゃないか?もし教えられていない部屋があったとしても、それを見てしまわないとは言い切れない。」
 「つまり、使用人だった被害者がクローン取引を知り、口封じのために殺された。ということか。」
 「金に困らない男が、プロの殺し屋を雇うなんてのは、よくある話さ。むしろ、世間にバレることの方を恐れているからな。」
 「それで夜桜の死神を。」
 燭台切がぽつりと溢した通り名に、鶴丸も頷き笑って見せた。
 「どこまで繋がりがあるかは分からんが、少なくとも一度は契約を交わした間柄だ。資産家の男を調べれば、何か出て来るかも知れないぜ。」
 「そうだね。証拠がない以上いきなり屋敷に入ることは出来ないけど、調べられる所から調べてみるよ。」
 燭台切の言う通り不十分かつ不確定な情報のみで、屋敷に踏み込むことは出来ない。だが、男の身辺を密かに調べることは出来るだろう。そもそも、その為のスタンドアロンだ。
 「男の調べはみつ坊とから坊に任せる。」
 「つるさんは?」
 小首を傾げる燭台切に、鶴丸はディスプレイの頭を軽く叩いて示した。
 「俺はこの魔法使いを捕まえる。このまま放っておく訳にもいかないからな。」
 スタンドアロンの電脳空間に侵入するだけの技術を持つ電脳の魔法使い。情報の真偽はどうであれ、今の所は人畜無害とも言える。しかし、いつその技術を持って牙を向くかは分からない。極秘情報を流されたら厄介だ。
 「君の相手は俺だ。」
 無表情な電子画面越し、鶴丸は顔も知らぬ敵に好戦的な笑みを浮かべた。

***

side.K

 国広は電脳の海に存在する本を読むのが好きだった。
 本に綴られた物語は、電脳の海に散りばめられた人々の記憶と記録。誰しもが主人公であるのだから、物語は数えられない程存在していた。国広は彼らが綴る物語を見守ることを好んでいたのだ。
 鳩のアバターを纏った国広は、今日も白百合の教会で本を読んでいた。
 ぺらりとページを捲れば、物語が見えて来る。この物語の主人公は、事件で両親を喪った少年だ。一時はふさぎ込んでいた少年だったが、良い養父に恵まれた彼は今ではよく笑う様だ。養父は仕事で家を空ける事も多い様だが、大切にされている事が良く分かる。国広は少年の健やかな成長を見守り、ページを閉じた。
 「羨ましいのだろうか。」、国広は心中自身に問いかけるが、結局答えは出ない。次の物語を読もう、国広がページ捲った時である。
 来客の気配に気付いた国広は、本を閉じて顔を上げる。国広に向かって歩いて来るのは、若い男だった。アバターを纏わず顔も隠さず現れた男は、正常な精神状態ではないだろう。
 国広は閉じた本を片手に立ち上がった。無論、鳩のアバターを纏ったままだ。
 「……。」
 男は小さく言葉にする。その言葉には、計り知れない程の憎しみが込められていた。
 「…お前のせいで!」
 断腸の思いだろう。怒声を響かせながら、男は国広に真っ直ぐ走って来る。その手に握られたのは、鈍い銀色に光る刃。国広は気付いていた。しかし、それを避けなかった。
 国広の身体に深々と刺さる刃。現実の世界であったならば、ただ事では済まないだろう。
 国広は男の手に、己の手を重ねる。ぱらぱらと崩れ落ちるのは、男が握る刃だけではない。国広の纏うアバターは、微細な光を放ちながら崩れていく。
 男があんぐりと口を開けたまま、指先一つ動かせずにいるのは、致し方のないことだ。手にしたナイフが消え、着ぐるみの様な鳩が崩れ中から修道女が出て来たとなれば、誰しも驚くだろう。もっとも、現実世界であったならばである。電脳世界では造作もないことだ。現実と仮想が判別出来ぬ程、男の心は不安定になってしまっているのだろう。
 「俺の非を教えてくれないか?少し話をしよう。」
 国広が男の手を両手で包み込めば、男はわっと声を上げて泣き崩れた。大の男が声を上げて泣くなど、そうないことだろう。そのあまりにも痛々しい様子に、国広は男を両手で抱くとその背を撫でた。いつか国広もこうして貰ったことがあるだろうか。国広には分からない。
 男が泣き止むまで、国広は震える身体を包み、その背を摩り続けた。どれくらいの時間そうしていただろうか。
 「…シスター。」
 涙声で国広を見詰める男に、国広は目を細めて笑って見せる。
 「どうした?」
 「分かっていたんだ。これは八つ当たりにしかならないと。」
 そう話す男は、嗚咽しながら悲し気に笑う。
 「この間、10番街で殺されたのは、俺の婚約者だったんだ。彼女から、シスターの事は聞いていた。心の支えだと。アンタは彼女の心を守ってくれていた。彼女の命は俺が守らないといけなかったのに。俺は…。」
 10番街。それは先日、国広が百合の花を手向けに行った場所である。この男は彼女の婚約者だったのだ。国広は振るえる男の身体を抱き締め、目を閉じる。
 「お前のせいじゃない。俺も何もできなかった。」
 国広は聖人賢者ではない。誰かを救うことなど出来ない。しかしながら、己の存在を肯定してくれた人さえ守ることが出来なかったのだ。国広は心中懺悔を繰り返し、男が心が落ち着くまで修道女として傍らに在り続けた。

 はらはらと涙を零す様に落ちる桜花弁。天に浮かぶ白銀の月の下で、国広は一本桜に身を預けた。
 この場所は現実の世界ではない。国広が作り出した電脳空間の一部だ。普段人を迎え入れる空間とは異なる。決して他人を受け入れることのない空間。言うなれば、国広だけの空間であった。
 この特別な空間で、国広が鳩や修道女のアバターを纏うことはない。仮面で顔を隠しながらも、その姿は国広そのものであった。
 「彼女の為にも強く生きたい。」、男はそう言い残し帰って行った。泣き腫らした瞼を擦る姿を思い出し、国広は一人溜息を吐く。
 「俺は何の為に生きているんだろうか。」
 国広が尋ねた所で、答える者などどこにもいない。国広を見下ろすのは白銀の月と、無言の一本桜のみ。
 淡い光を纏う桜に国広は頬を寄せる。仮初の桜が、自然の息吹を感じさせることなどない。どこまでも無機質だということを、国広はよくよく知っている。それでいて、この隠れた空間を作り出したのは、国広の甘えだ。
 国広の記憶の片隅にあるのは、銀色の光を纏う大層美しい少年。その姿は、丸で夜桜に誘われ、地上に降り立った神だった。彼は国広に言ったのだ、一つだけ国広の欲しい物を与えると、代わりに生き続けろと。国広はその天啓に従い、この無情な街で生き続けた。青いポリバケツを漁った記憶は数え切れぬ程。雨水を舐めるのも、厭わなかった。国広は生きなければならなかったのだ。
 「欲しい物が手向けの花だと言ったら、お前は呆れるだろうか。」
 はらはらと花弁を落とす桜の木の下、国広は静かに目を閉じた。