サヰレント・サザンカ

小説家つるさん×弁士国広くんの明治浪漫パロです。
こちらも明治浪漫パロの本に収録しています。



 がたりがたりと窓を揺らすは小雪の風。音に釣られて外を眺めてみれば、風花こそ見られぬものの庭の木々が忙しなく揺れている。紅葉も姿を消し、随分と物悲しく庭先を鴇色の山茶花が彩る。その淡い色の何とも美しき事。  その花を更に近くで愛でようと、男が窓に寄った時の事であった。山茶花彩る垣根の向こう、一人の若い娘が過ぎて行く。先程迄山茶花許見詰めていた男の心を、娘は一瞬にして掠め取って行った。  こんな話では駄目だ。己が書きたい小説は、こんな話ではない筈だ。鶴丸は手にしていた万年筆を放り出した。  「失礼します。」、そう一声かけて障子を開けたのは、弟子の物吉だった。穏やかな声音が、この若者の温厚な人柄をよく表している。柔和で聡明な弟子は鶴丸の自慢であった。その物吉が、にっこりと笑みを浮かべ、来客を告げる。  「國江先生にお客様です。」  そう物吉が言い切らぬ内に、当たり前の様に部屋に押し入る者。その様な男は一人しか知らない。普通の人間ならば横暴とも言える行為を、この男は何でもない事の様に出来てしまう。それでいて、相手に不快感を与えないものだから、この男は凡人とは違うのだろう。  「三日月。何の用事だ?見合い話なら、間に合ってるぜ。」  断りなく部屋へ入る事について指摘した所で、この男には無意味だ。その事については、長い付き合いで厭という程知っている。そして、この男が持ってくる話もおおよそ検討がついてしまう。  「鶴、そなたも随分とつまらぬ男になったな。人生には驚きが必要なのではなかったか?」  口元を押さえて笑う様は、かの源氏物語に在った光源氏か。若い娘、否、女は皆この笑顔に騙される。然れど、鶴丸は女ではない。  「つまらない男とは、なかなかの物言いじゃないか。じゃあ、何だ。君は見合い以外の話を持ってきたというのか?」  この男の持ち込む見合い話には、辟易していたのだ。白い肌に深窓の令嬢の様だと言われる事も屡、然れど鶴丸とて男児である。当然、気立ての良い娘を娶ろうと思った事がない訳でもない。  「物語の中の娘に惚れこんで、人の子に飽きてしまったか?」  「まさか、そんな筈がないだろ。君の発言に驚いたぜ。」  三日月の発言を否定し笑ってみたものの、心底「そんな筈はない。」と笑い飛ばす事が出来なかった。その言葉がどこか図星を指していた為だろう。空想の世界に住まう娘程、理想で固められた物はない。その様な娘と常に接していれば、人の子などつまらない物に思えてしまうのだろう。  三日月は何かを察した様に、口元を隠してははと笑う。  「冗談だ。今日は見合いの話ではなくてな。そなた、活動写真を知っているか?」  「活動写真?」  活動写真。異国から渡って来た物で、巨大な写真を観客に見せ乍弁士が物語を語るらしい。鶴丸もその言葉は知っていたが、興味は皆無であった。  「活動写真館に行くのなら、君一人で行ってくれ。俺は浄瑠璃の一つでも観劇した方が刺激になると思うがな。」  「さて、それはどうであろうか。試さずに分かる物でもなかろう。それとも、そなたは物語の娘を口説くのに忙しいか?」  「今日の君はいつになく挑発的だ。何か気が立つ事でもあったか?」  ほとほと困り果て、終いには追い払う様に冷たくあしらうが、三日月は笑みを崩さない。こうなってしまえば、この男は絶対に自分の考えを変える事はない。鶴丸は諦めて、大きな溜息を吐いた。 ***  先程迄疎らであった無数の声は、次第に量を増し、客人の多さを物語った。建てられて間もなかった頃は、人のいない客席の方が多かっただろう。然し、今では開いている客席を探す方が困難だ。まさに満員御礼であった。  耳を塞いだ所で隠す事の出来ない多くの声に、国広はふぅと息を吐いた。顔を隠した弁士を務める様になり、それなりに月日は過ぎた。それでも未だ慣れる事はない。一冊の本に手を重ね、「大丈夫だ。」と己に言い聞かせる。  「国広。そろそろ開演だが、行けるか?」  穏やかな声音で告げたのは、鶯丸であった。故有って家を飛び出した国広を拾い、書生として置いてくれた人だ。それだけではない。弁士と言う仕事を与えてくれたのも、この鶯丸であった。鶯丸は国広の命の恩人の一人である。そして、同時に父の様な存在でもあった。  丸で国広の心を落ち着かせてくれるかの様に、またそっと背中を押してくれるかの如く、鶯丸は国広の肩に優しく手を乗せた。  「國江白鶴の本、買えると良いな。」  鶯丸の言葉に、国広ははにかみ乍頷いた。國江白鶴、それは最早誰もが名を知る小説家だ。奇抜な発想と繊細な表現が織り成す物語は、多くの人々を魅了した。国広もその物語に魅了された一人であった。然し、本は決して安い物ではない。中古でやっと買う事が出来る程だ。  「無理はする。でも、目標を持つ事は悪い事ではない。」  国広の細やかな願いを、鶯丸も知っている。決して甘やかさず、それでいて時に背を押し、躓けば手を差し伸べてくれる。国広は「分かった。」と、確り頷いた。  「少しゆっくりし過ぎたか。もう間もなくらしい。」  賑やかな声が集う方を鶯丸が目で示せば、国広は立ち上がる。間もなく開演だ。黒子の様に顔を隠し、いつもの場所へと向かう。 ***  漫ろ神にでも憑かれたか、若い男は落ち着きなく足を揺らす。逆を見れば、通い慣れているのだろう老夫婦は、寄り添い笑みを浮かべる。  さて半ば強引に連れて来られた鶴丸はと言えば、臍を曲げるしかないだろう。  「そう渋い顔をするな。」  「そうは言うが、君。そもそも、君が強引に連れてきたんだぜ。」  不満を口から吐き出せば、幾分気持ちが落ち着いた。然し、だからと言って、気分が晴れる物でもない。  鶴丸が如何にもという様に嫌な顔をして見せるが、三日月は何処吹く風か。  「ふむ。だが、鶴よ。そなたもあの弁士の語りを聞けば、何も言えんだろう。」  「どうだろうな。」、冷めた言葉で返せば、丁度開演の合図が響く。もうどうでも良いと、投げやりに椅子に背を預けた。  間もなく、巨大な写真が観客の注目を集める。噂に聞いていた通り、巨大な写真の鑑賞会だ。居眠りでもしようかと瞼を閉じれば、静かに耳を撫でる声。丸で冬至の朝が如く、静かで澄んでいる。その凛とした声に鶴丸は導かれた。  皆が動く写真に釘付けになる中、鶴丸は一人声の在処を探す。声は見えぬ。然れど、鶴丸はその声に釘付けになっていたのだ。  立ち上がる訳にも行かず、彼方此方に視線をさ迷わせ、やっとの事で辿り着く。皆が夢中になる写真ではなく、その脇に佇む一人へと。  静寂を語る人は、黒子が如くその顔を隠していた。背格好からして、若そうだ。まだ育ちきっていない、そう表すのが正しいだろう。彼方は鶴丸の事など気にも留めないだろうが、それで良いと鶴丸は思った。言うなれば、人々が写真に夢中になっている中、鶴丸一人は語り部の声に心を奪われていたのだ。  あっという間であった。否、夢中であったから、そう思うのだろうか。人々が酔いしれた活動写真は、歓声の中、静かに幕を下ろした。  「どうだ?これでも、そなたはつまらぬと言うか?」  三日月に指摘され、漸く鶴丸は先の己の失言を思い出す。子供の様に駄々をこね、 狸寝入りでもしようと思っていた。然し、今では、時を巻き戻す事が出来るのであれば、その様な事を考えていた己を思い切り殴り飛ばしてやりたいと思うのだ。  先程の静かな語りを脳裏で反芻して、嗚呼と溜め息を吐いた。ふと、先の弁士の姿を思い出す。  「弁士と言ったか。彼らは皆、ああして顔を隠すものなのかい?」  素直な疑問であった。確かに語り部が余りの美丈夫であったならば、皆弁士に許目が行ってしまうだろう。  「ああ、あれか。俺もあの様な弁士を見たのは、あの子が始めてだ。でも、良い弁士だろう。」  三日月は上機嫌に笑う。決して燥ぐ事はないが、その笑顔に偽りはない。鶴丸はああと頷いた。  「良い弁士だ。彼のお陰で筆が進みそうだ。」  実体のない筆を手に、ひらりひらりと空気中に文字を綴る。丸であの冬空の様な声に導かれている様だった。  さて、帰宅した鶴丸は直ぐに万年筆を手に取った。興奮気味な鶴丸の様子に、弟子の物吉は初め驚いた顔をしたが、直ぐに何かを察した様にいつもの柔和な笑みを浮かべた。  「お茶、ここに置いておきますね。」  「あぁ、助かる。ところで、君。」  「どうしましたか?」と小首を傾げる物吉に、鶴丸はふざけた調子で尋ねてみる。  「目隠しをされていたとしよう。もしその状態で、至極心惹かれる声に出会った時、君はどうする?」  唐突に尋ねられた物吉は、始め驚いた様子を見せる。そして、暫し考える様に首を捻ると、困った様に笑った。  「きっと、その人の姿を見てみたいと思うでしょうね。」  がたりがたりと窓を揺らすは小雪の風。音に釣られて外を眺めてみれば、風花こそ見られぬものの庭の木々が忙しなく揺れている。紅葉も姿を消し、随分と物悲しく庭先を鴇色の山茶花が彩る。その淡い色の何とも美しき事。  その花を更に近くで愛でようと、男は草履を引っ掛け庭先へと出た時の事である。  山茶花彩る垣根の向こうから聞こえる声。雪に溶けて消える様な、それでいて寒空の様な凛と澄ました声。この声の主はどの様な人だろうか。山茶花の垣根より先を見詰めるが、最早人影はあらず。吐いた息は白い霧となり消えて行く。 ***  薄っすらと紅を帯びる雪道を、国広は行く。町外れの小さな家、そこが国広と友人歌仙が世話になっている家である。世話になっていると言っても、この家に住んでいるのは、歌仙と国広の二人だけではあるが。  「ただいま。」  がらがらと引き戸を開ければ、丁度歌仙が廊下に出てくる。歌仙が手にする食器には、湯気を昇らせる料理。家中には良い香りが立ち込めていた。  「おや、おかえり。丁度、夕飯の支度が整った所だよ。」  歌仙は目を細めて穏やかに笑う。「夕飯にしよう。」とその笑顔に促されれば、国広は素直に頷いた。二人で炊事を行う事が常であるが、片方の帰りが遅い時はもう片方が先に支度をするという決まりだ。この家から少し行った所に鶯丸の家がある。歌仙はその家で書生として世話になっていた。尤も、勤勉で知識人の歌仙を鶯丸は、俗に言う書生では丸で釣り合わないと笑っていたが。  部屋へと上がれば、歌仙が丁度茶碗に飯を盛った所であった。卓の上で柔らかな湯気を昇らせる煮物。色とりどりの根菜が詰められた器に、心を躍らせる。  「冷めてしまう前に食べよう。今日は良い大根が手に入ったからね。君はこれが好きだっただろう。」  くすりと笑う歌仙に、こくこくと頷いて畳の上に腰を下ろす。歌仙は料理上手だ。そして、この根菜の煮物が、国広は一等好きであった。  「召し上がれ。」と許可を貰えれば、躊躇いなく「いただきます。」と大根を口に頬張った。柔らかく煮込まれた大根が、口の中でほろほろと崩れて行く。国広は堪らず、顔を綻ばせた。  「喜んで貰えてよかったよ。そういえば、國江白鶴の本は買えそうかい?」  「あぁ、後少しだ。次の給料できっと買える。」  こつこつと貯めた給料。古本ではあるが、もう少しで念願の本が買えそうだった。國江白鶴、それは国広をこの世に引き留めてくれた恩人の一人であった。  夕食の片付けを終えた頃には、すっかり日は落ちていた。ランプに火を灯せば、四畳半の自室をほんのりと染める。ゆらりゆらりと踊る灯りを眺めては、一冊の本に手を重ね、深く息を吐いた。  国広は所謂妾の子であった。父は国広の事を大層気に入っていたが、家の者は皆国広の存在を疎んでいた。特に本妻は、国広を腫れ物の様に忌み嫌っていた。母が早くに逝った事もあり、国広の味方は父一人だったのだ。  「国広。」、そう呼ぶ父の声を敬愛していた。そう、確かに敬愛していたのだ。それが恐ろしい物に代わってしまったのは、あの赤い月の夜の事。国広を褥に呼んだ父の様子はいつもと違っていた。荒い息を吐く父を突き飛ばし、国広は無我夢中で家を飛び出した。河原へと辿り着いた時、最早何処にも己の味方はいないのだと、泣き喚き悲嘆した。そして、もういっそこの儘川にでも身を投げてしまおう、そう思った時の事である。修羅の形相で国広を止めた人がいた。それが歌仙である。その歌仙が国広に与えてくれた物こそが國江白鶴の本であった。  ほんのりと灯りに照らされた本を掌で撫でる。そうしているだけで、国広の心は落ち着くのだ。  國江白鶴の綴る物語は、どれもが斬新でそれでいて繊細で美しい。その中で、歌仙に与えて貰ったこの本の物語を、国広は一番気に入っていた。病で生死を彷徨った男は、その姿故に人の欲にも振り回された。それでいて、常に前向きであり、確りと二本の足で歩んでいたのだ。本を読み終えた時、国広は涙を流した。余りにも多くの涙を流した為、瞼が真っ赤に腫れた事を、国広はよく覚えている。そして、それを優しく抱き留めてくれたのは、歌仙であり、鶯丸であった。  幾らか遠くなった過去を思い出し乍、目を伏せる。そうする事で、己の鼓動を確かに感じる事が出来た。確りと今を生きているのだと、実感できた。 ***  さて、初めて活動写真館を訪ねてから数日が過ぎた。その頃には、すっかり鶴丸は活動写真館の常連になっていた。色々言ってみたものの、気が付けば鶴丸は活動写真に夢中になっていたのだろう。そして、何より夢中になっている物があったのだ。  「今日も来たのか。」  隣の席に腰掛けて笑う男とは、すっかり馴染みになった。一人ふらりと活動写真館を訪ねた鶴丸に、この男が「活動写真は好きか?」と尋ねて来たのだ。そこから、気が付けば顔馴染みになっていた。男が何者であるかは、未だ分からぬが鶯丸という名で、この活動写真館の常連である事は知っていた。  「そういう君も、今日も来たんだな。」  そう言葉を返すのは、この男との挨拶の様な物だ。その後は大体、上映が始まる迄下らない世間話を交わすのが日課であった。  「国広が目当てか?」  「国広?」  聞き慣れぬ名に小首を傾げれば、鶯丸は含みのある笑みを見せた。素性不明の男だが、鶯丸という男は性根の悪い男ではない。時として厄介な愛嬌と言った所であろう。それは三日月と似た所がある。  「国広って誰の事だ?」  にんまりと笑う顔を覗き込む様に尋ねてみれば、鶯丸は自慢気に答えた。  「お前のお気に入りの弁士だ。」  その言葉を聞いた時、鶴丸は今し方教えられた名を無意識に反芻した。それはその名を決して忘れない様にと、己の脳に確りと記憶させる為だったのかも知れない。  冷めた風が今日も窓を揺らす。時期に淡雪もちらちらと舞う様になるだろ。  窓から外を眺めていた男であったが、人が過ぎる声を聞き、慌てて表に飛び出した。草履も履かずに地に足を着けば、当然突き刺す様な冷たさを感じるであろう。然し、男はその様な些細な事など気にならなかった。もしかしたら、あの声の主の姿を知る事が出来るかも知れない。そう思い、なりふり構わず外に飛び出したのだ。  山茶花垣根の向こう側、一人の若者が立っていた。口角を上げた若者は、男に尋ねる。  「国がいなくて、残念か?」  そうだ、あの声の主を求めていたのだ。男が素直に頷けば、若者はまた笑う。揶揄われているのだろうか。  「アンタ、丸で国に恋をしているみたいだな。」  万年筆が手から滑り落ちる。  随分と時間がかかってしまったが、鶴丸は気が付いたのだ。己が頂いている思いが、この男と同じである事に。 ***  その日、国広は軽やかな足取りで帰路についた。吹く風は冷たいが、心は随分と温かかったのだ。それは大事に抱えた物にあった。  「ただいま。」  がらがらと戸を開ければ、声に気が付いた歌仙が廊下へ出てくる。歌仙も国広が手に抱える物が何であるか、直ぐに察する事が出来たのだろう。一層穏やかに笑った。  「おかえり。念願の本が買えたみたいだね。」  「あぁ、やっと買えたんだ。」  はにかみ乍、こくり頷く。口元は誤魔化す事が出来ても、熱を持つ頬を隠す事は出来ない。  「君は國江先生の本が好きだと言うが、どちらかと言えば丸で國江先生に恋をしているみたいだね。」  歌仙の指摘に、国広の頬が一層熱を持つ。穴があれば入りたい。然し、都合の良い穴などない。  「さて、先に夕飯にしよう。料理を運ぶから、本を置いたら台所に来てくれ。」  そう言われて、国広は「わかった。」と頷く。これ以上追及されでもしたらならば、全身から湯気でも出てしまいそうであった。国広は逃げる様にして部屋へと駆けた。  いつもの食卓には、幾らかの料理が既に運ばれている。早く歌仙の手伝いに向かわなければと思い、深く深呼吸し、卓の端に本を置こうとした時である。  がしゃんという強く戸を開ける音が響いたと思った瞬間、気が狂ってしまったかの様な女の声が響き渡る。間もなく、それに重なったのは歌仙の声だ。  何事かと思い、玄関へ向かおうとすれば、原因は自ら部屋へと上がり込んできた。この女を国広は知っている。知っているが、二度と会いたくない人であった。  「お前、活動写真館にいるそうじゃないか!よくその面下げて、人前に出られたな!この恥知らずが!」  血走らせた双眸が国広を咎める。国広とて男児だ。罵声を浴びせられて黙ってなどいられない。然れど、この女は例外である。この女の夫を奪ったのは、己の母親なのだ。  国広が何の言葉も発せぬ事を良い事に、女は手近にあった本を手に取った。女も無我夢中だったのだろう。女が手にした物、それはやっと買う事が出来た國江白鶴の本である。女がその様な事情を知る筈もない。知っていた所で、何も変わらないだろうが。  びりびりと裂帛を上げて、本は紙屑に変わった。  「国広!」  足を引き摺り乍現れた歌仙に、女は奇声を上げるとあちらこちらの物に八つ当たりをし乍家を出て行った。  歌仙に抱き締められて、やっと国広は今し方起こっていた事を理解した。背を摩られて促されれば、規則正しい呼吸も戻って来る。  「国広、大丈夫かい?」  心配そうに顔を覗き込む歌仙を、少しでも安心させようと口を開いた。然し、その言葉は吐息となって消える許。一向に音にならないのだ。安心をさせようと思っていた筈が、増々歌仙の眉が下がっていく。だが、歌仙は国広を責めはしなかった。  「大丈夫。少し驚いただけだろう。時期に直るだろう。」  優しく包み込む様な歌仙の言葉に、国広ははらはらと涙を溢した。 ***  冷たい風が肌を撫でようと、地面が白に染まろうと、鶴丸には関係なかった。全身を巡る血を冷めさせたのは、冬のせいではない。  「どうして、国広がいないんだ。」  いつも国広が立つそこに、今日は見慣れぬ姿が在ったのだ。鶴丸は至極落胆した。  いつもの様に活動写真の上映が始まれば、弁士は物語を語る。確かに優れた弁士なのだろう。他の者からすれば、十分に国広の代役を務めていると思うのだろう。然れど、鶴丸にとっては違うのだ。  結局、上映を終えても国広は姿を見せなかった。  帰宅した鶴丸は考えた。人間誰しも様々な理由で休みを頂戴する事がある。国広も人間である、休みを取った所でおかしくないだろう。  納得した鶴丸は、翌日も活動写真館を訪ねる。然し、どうした事だろう。国広が姿を見せないのだ。その様な日が幾日も続けば、愈々おかしいと気が付く。  「國江先生。」  一縷の望みを胸に家を出ようとした所で、物吉に呼び止められる。  「もしお見舞いに行かれるのなら、あれを持っていってはどうでしょう?」  物吉が視線で示した先には、山茶花が寒さに堪え乍見事な花を咲かせていた。  「それは名案だ。あの花を幾つか持って行こう。あの子に会えなくても、人に預ければ良い。庭先の花がだが、あの子は喜んでくれるだろうか。」  「きっと喜んで貰えますよ。寒さに負けずに咲く花を見れば、元気も勇気も湧いてくると思います。だから、國江先生も笑って下さい。」  にっこりと笑みを浮かべる物吉に、嗚呼その通りだと頷く。  こうして、幾らかの花を手に、活動写真館へと足を向けた。  大勢の人が集う中、鶴丸は一人の人間と目が合う。鶴丸同様この活動写真館の常連鶯丸だ。そういえば常連の筈の鶯丸だが、ここ数日は会っていなかった事を思い出す。  「久しぶりだな。」  「野暮用でな。お前も随分と珍しい物を持っているじゃあないか。」  珍しい物、そう表された物は、鶴丸の手にある物だろう。寒さに耐えて咲く花のなんとも健気で美しい事。鶯丸はその花を見て察した様だ。  「国広の見舞いか?残念だが、今日も国広はいない。」  いない、そう言い切った鶯丸に、鶴丸も怪訝な顔をするしかない。何故その様な事を知っているのか。抑々、鶯丸は国広の名を知っていた。  「君は国広と、どういう関係なんだ?」と面と向かって尋ねられたら、どれ程良いだろう。然し、その問いを素直に口にする勇気はなかった。  結局、山茶花の花を鶯丸に託し、鶴丸はとぼとぼと帰路に着く。明らかに落胆した様子の鶴丸を見た物吉は、何を言わず茶を煎れてくれた。鶴丸は湯飲みに口を付け乍、庭先の山茶花をぼんやりと眺めた。あの向こう側を歩む若者はいない。  冬の朝は寒かった。身を刺す様な寒さとはこの事か。物吉が箱火鉢に炭団を用意してくれたが、この寒さでは到底追い付けまい。袢纏の袖に両腕を突っ込んで、白い息を吐いた。  活動写真館で国広を見かけなくなってから、ぴたりと筆は止まってしまった。最早、万年筆を握る気にもなれないのだ。  「國江先生、お客様です。」、そう物吉が言い終えぬ間に、部屋に上がり込む男など一人しかいない。  「鶴、そなたに会ってもらいたい人が居る。」  現れるやいなやそう告げたのは、三日月だった。「今はそんな気分じゃあないんだ。」と拒絶する間も与えられずに、引き摺られる。その様子を物吉は穏やかな顔で見守っていたが、鶴丸にとっては堪ったものではない。  強引に連れて来られた場所は、小さな家の前であった。  「君は相変わらず、我が儘だな。」  悪態の一つでも吐かねば、気は収まらない。然し、そうした所で、矢張りこの男は気にも留めず我を貫き通すのだ。口元を隠して笑うその横面を殴る事が出来たならば、気も晴れようか。  鶴丸の心中を知ってか知らずか、否、この男は知っているだろう。それでいて、矢張り無視しているのだ。  三日月ががらがらと戸を開ければ、丁度家人が現れる。物吉とはまた異なるが、どこか落ち着いた印象の若者だ。穏やかな笑みを浮かべていてもおかしくない。然し、「よくお越しくださいました。」と告げるその顔は、憂いを帯びている。ろくに眠れていないのだろうか。  「あの子は今何処に?」  三日月の問いに、首を横に振る若者。ふむと深く息を吐いた三日月は、再び鶴丸の手を強引に引いた。  「上がるぞ。」  「お願いします。あの儘だと、あの子はまた馬鹿な事を考えかねない…。」  顔を伏せそう溢す若者。余りの悲し気な様子に、見て見ぬ振りなど出来ようか。乗り掛かった舟だ。鶴丸は覚悟を決めて、若者の言うあの子が居るだろう部屋の戸を開けた。  「邪魔するぜ。」  部屋の隅で小さくなる人影に声をかけてみるが、返事はない。窓際に飾られた山茶花の花も泣いているかの様だった。  三日月が鶴丸の肩に手を乗せる。  「鶴、ここはそなた一人に任せよう。」  「君、それはないんじゃないか。そもそも、君が…」  言いかけた所で、慌てて口を噤んだ。この部屋の主は、ガラス細工と同じ。下手な事を口にすれば、容易く壊れてしまうのだろう。鶴丸は三日月を一睨みすると、部屋の中へと踏み込んだ。  「俺は鶴丸国永だ。怪しい者じゃあない。」  驚かせない様に慎重に。それでいて自然な歩みで、部屋の主に近付いた。  「君の名前は何て言うんだ?」  下を向く顔を覗き込もうとした時、気が付いた。部屋の主は一冊の本を大事そうに抱えていた。破れた本は読むに辛いだろう。だが、その子はそれを確りとその腕に抱いていたのだ。鶴丸はその本を知っている。  「國江白鶴か。君は、國江白鶴の本が好きか?」  己の作品を好きかと問う程、滑稽な事はないだろう。然れど、それは彼が顔を上げてくれるきっかけになった。年若い顔は、未だあどけなさが残っている。泣き腫らしたのだろう眼が痛々しい。  刺激をし過ぎない様に、くしゃりと頭を撫でてみる。柔らかな髪は、丸で雛鳥でも撫でているかの様だ。  「君の名前を教えてくれないか?」  笑みを浮かべ尋ねてみれば、僅かに彼の口元は動く。然し、そこに音はない。どうした事だろうか。鶴丸が小首を傾げれば、彼は再び唇を動かす。矢張りそこに音は存在しなかった。終にその子は、己の喉に手を添えて、ぽろぽろと涙を溢す。そうだ、彼は言葉を失ってしまったのだろう。そして、その事が悔しくて涙を溢しているに違いない。  幼子の様に泣く子を、鶴丸は腕に抱き、背を撫でてやった。何かしてやれる訳でもない。出来る事と言えば、「大丈夫だ。」「無理をしなくて良い。」と言ってやる事位であった。  泣き疲れた子が眠ると、鶴丸は部屋を後にした。  客間には三日月と、玄関先で鶴丸を迎えてくれた若者の姿があった。若者に座布団を勧められれば、鶴丸はそこに腰掛けた。  「紹介が遅れました。歌仙兼定と申します。」  「いや、俺も紹介が遅くなった。鶴丸国永だ。所でだ。君、あの子が声を失ったのはつい最近の事か?」  生まれ持って声がなければ、あの様な姿を見せないだろう。否、生まれ落ちたその瞬間から声を持たぬ者も、当然苦悩しているだろう。然し、あの子はそれとは違う様に、鶴丸は感じた。  「実は…先日、彼の義母がこの家に来ました。元々、妾の子で実家との関係が悪く、縁もとうに切っていました。」  告げた歌仙は、大きな溜息を吐くと忌々し気に溢した。  「…その女が態々この家を探して迄来た。余程あの子が弁士として成功している事が、許せないらしい。」  独り言であったのだろうが、その言葉を確かに鶴丸は聞いた。余程、歌仙はあの子の事を大切に思っているのだろう。その姿は、丸で人魚姫を思う姉か。  窓の外を眺めてみれば、ちらちらと泡の様な粉雪が舞っていた。三日月も同じ様に、外へと視線を向ける。  「雪か。雲行きも怪しくなってきたな。」  「折角来て頂いたのに、何ももてなしが出来ず申し訳ない。」  歌仙が頭を下げるので、「気にしないでくれ。」と顔を上げる様に促す。歌仙自身も相当に参っているのだろう。  「國江先生にお会いして、あの子の気持ちが少しでも落ち着けば良いんが…。」  「そういえば、あの子は國江白鶴が好きなのか?」  あの子が抱えていた本を思い出す。破れてしまった本を大事そうに抱えていた。余程大切な本なのだろう。  「あの子は國江先生の作品に命を救われました。それ以来、先生はあの子の憧れです。先生の話をするあの子の姿と言えば、丸で恋をした娘の様で…。」  嗚呼と鶴丸は納得をした。だから、あれ程迄に破れた本を大事にしていたのだと。何とも健気な子だろうか。泣き腫らした顔を思い出し、鶴丸は目を伏せた。  窓から見える山茶花の垣根は、強い風と雪に晒されていた。帰宅がこの吹雪の中であったならば、さぞ大変であっただろう。  夕餉も済ませた後、ランプを明かりに、鶴丸は万年筆を握っていた。あの様に己の作品が生きる希望だと言ってくれる若者がいるのだ。いつまでも休んでいる訳にはいかないだろう。  あの声を求め、男は今日も山茶花の垣根の向こう側を眺めていた。  寒空の下、通り過ぎて行くのは、一人の若者。先日の若者とは、違う若者だ。頭を垂れたその姿は、何とも悲し気であった。そのただならぬ様子に、男は堪らず家を飛び出す。  草履を引っ掛け若者の元へと駆け寄ると、「おい。」とその肩を掴み呼び止めた。  振り返る若者が見せた顔は、紅く染まる眼。音亡き若者は、はらはらと涙を流す許。  「まさか、国なのか?」  冬の冷めた空気は、よく音を通す。滑り落ちた万年筆が卓を叩けば、それは部屋中に木霊した。  「そういう事だったのか。」  そう考えれば、全て辻褄が合う。鶴丸は抑えられぬ衝動で、勢いよく立ち上がった。 ***  夜が明ければ、昨夜の吹雪は丸で幻であったかの様に姿を消した。然れど、国広の心は今だ吹雪の夜から抜け出せぬ。  破れた本を腕に抱き、部屋の隅で丸くなる許だ。歌仙や鶯丸に申し訳ないと思わない事などない。然し、声を出そうとすれば、それは音にならずに消え。表に出ようとすれば、激しい動悸に襲われた。今日も布団を被り、縷々と涙を流す許。  「わっ!」  突然頭上から降って来た声に、国広は驚き飛び退いた。布団を確りと被っていた為、これ程迄近い位置に人が近付いてた事に気が付かなかったのだ。  「驚いたか?隣、邪魔するぜ邪魔するぜ。」  からからと笑って国広の隣に腰を下ろしたのは、昨日尋ねて来た男であった。白絹の様な肌に、双眸に添えられる長い睫毛。昨日はよく見る事など出来なかったが、改めて男の姿を見て、国広は目を丸くした。なんと美しい男なのだと。  「君に読んでもらいたい物があるんだ。」  そう男が差し出したのは、幾枚かの原稿用紙であった。男が余りに莞爾とした顔で見詰めるので、国広も怪訝に思い乍もその原稿を読み始める。  物語の主人公は、鶴丸国永という一人の男だった。  國江白鶴と名乗る小説家の男には、気の利いた弟子は居るが、伴侶は居なかった。夢物語に魅せられて、己の恋や愛という物には丸で無頓着な男だった。  その様な男だが、山茶花の垣根の向こうで奇妙な出会いを果たす。否、声だけの出会いであった。男は己の抱く感情も分からぬ儘、その声に惹かれて行く。未だ姿は知らぬ人、その名が国広であると知っただけで、男は大いに喜んだ。  あの声を求め、男は今日も山茶花の垣根の向こう側を眺めていた。  寒空の下、通り過ぎて行くのは、一人の若者。先日の若者とは、違う若者だ。頭を垂れたその姿は、何とも悲し気であった。そのただならぬ様子に、男は堪らず家を飛び出す。  草履を引っ掛け若者の元へと駆け寄ると、「おい。」とその肩を掴み呼び止めた。  振り返る若者が見せた顔は、紅く染まる眼。音亡き若者は、はらはらと涙を流す許。  「まさか、国広なのか?」  温かな雫が国広の頬を伝う。横を向けば、そこには柔らかな笑みを浮かべる男。  「俺のずっと探していた国広は、君だったんだな。」  白い手に涙を掬われるも、溢れるそれは止む事を知らぬ。眼が壊れてしまったのだろうか。  恐る恐る動かしてみた唇から聞こえたのは、よく馴染んだ音だった。 ***  麗らかな日差しが、庭の桜を一層引き立てる。  満開の山茶花は姿を消してしまったが、厳しい寒さを耐えた事で、この家に美しい花を呼んでくれたのだ。  「アンタ、早くしないと、置いていくぞ。」  「そうですよ。置いていっちゃいますよ。」  鶴丸をそう玄関先で呼んでいるのは、愛しい伴侶と可愛がっている弟子であった。その伴侶は先日鶴丸が贈った鹿の子の着物に身を包み、つんと口先を尖らせている。その余りの愛らしさに、もう少し見ていたい気もしたが、これ以上は本当に拗ねてしまいかねない。  「すまん、すまん!」  伴侶から貰った帽子を被ると、慌てて二人の元へと駆けた。  「まったく、花見に行きたいと言ったのは、アンタだろ。」  「三日月さんや鶯丸さんは笑って許してくれそうですが、歌仙さんに怒られちゃいそうですね。」  弟子が言う事に伴侶は呆れた様に、その通りだと頷く。鶴丸は急ぎ足で二人に追いつくと、一度足を止め二人の腰を抱いた。  「よし!歌仙に怒られない様に急ぐか。」  にっと笑って見せれば、弟子はふふっと楽し気に笑い。口先を尖らせていた伴侶も、満更でもないというかの様に笑った。  暖かな春の日の事であった。