策士、策に溺れる

軍師つるさん×軍師国広の似非歴史中華パロです。
軍師同士の心理戦の様な恋の駆け引きの様な。
こちらは中華歴史パロ本に収録しています。(こちらはとらのあな様に極数量置いて頂いています)



 秋口の風は僅かに肌寒く、月光に照らされる枯れ草も風に揺られざわめいていた。  川を挟み対峙する二国。天下が複数に分裂し、数多の英雄達が名乗りを上げる中、今まさに二つの国が互いを喰わんと睨み合っている。どちらもまだ小国であり、諸外国と比べればまだまだ非力である。然し乍、少ないとは言えど互いに兵を出し争うのだから、鳥も虫も静かに囀る事も出来ぬだろう。否、既にこの地を離れているのかも知れない。  「国広。君はこの地をどう見る?」  高台から遠方を眺めている国広に声をかけたのは、同胞の歌仙であった。歌仙は、詩を好み風流を愛する文化人とは言われているが、武術にも長けた男である。無論、国広も武には心得があった。また、兵法も嗜んでおり、此度の戦は武将ではなく、策士としての役割に重きを置かれていた。  「歌仙は、どう見る?」  国広は少し揶揄する様に、逆に歌仙に同じ質問を返した。同胞であり、親しい友であるが故の戯れである。すると歌仙は「全く、君は。」と、僅か許困った様に苦笑する。然し、直ぐに目付きを変えると国広と同じ様に高台から遠方を見渡した。と、或一点で視線を止める。西の山道だ。  敵本陣に迫る為には、西の山道または東の道のいずれかを進まなければならない。歌仙はその西の山道に注目していた。  「西の山道には伏兵が潜んでいる可能性があるね。地形も含めると、落石計を仕掛けてくる可能性もある。東の道は見晴らしが良いから、伏兵の恐れはないと思うけど。少し気になるね。」  冷静に一つ一つの可能性を挙げていく歌仙だが、そこで言葉を詰まらせた。歌仙が難しい顔をするであろう事を、国広は質問で返した時点で分かっていた。それは国広自身も戦場を眺めて、一度は唸った点だからである。例え相手が兵力を西の山道に割いていたとしても、正面からぶつかり合う事は利口とは思えない。仮に東の道へ兵力を集中させた場合、西の山道から兵が移動し背後を取られる可能性もある。退路を絶たれる事程危険な事はない。  国広は膝下程まで伸びた枯れ草に視線を落とした。これと同じ物が対岸、さらにはその先まで広く覆っている。その事を国広は事前に知っていた。  良策は無いかと唸る歌仙に、そこで初めて国広は自分の考えを言葉にする。すると歌仙は笑みを浮かべ、納得した様に頷いた。  黒い天に穴を開けたような満月は、山頂に構えた野営地を静かに照らしていた。虫の囀ずり冴え聞こえないのは、間も無く起こるであろう事を察し、自ら消えてしまったからだろうか。  「国永。本当にお前の言う通りで大丈夫なのか?西の山道にもっと兵を伏せた方が良いのではないか?」  兜を小脇に抱える武人は、唯々静かに遠くの景色を臨む背に声をかけた。すると、その背がゆったりとした動きで振り返る。目元を飾る銀の細工が、仰々しい存在感を放っている。  「西の山道は、初めから気付かれてるな。だからこそ、素直にそこに兵を伏せたんだが。」  国永はそう静かに目を細め笑った。視界の悪い山道だから伏兵も落石計も有効だろう。然し、それを見抜けない程敵も愚かではないだろう。否、 寧ろ国広という男がいる以上一筋縄ではいかないだろう、と国永は予想していた。  「ならば、なぜ気付かれている場所に伏兵を置いた?少ない兵力をそこへ割く意味はあるのか?」  武人が理解できぬと許に首を傾げる。すると、国永は近場にあった細い枝を拾うと、地面に一つ絵を描いた。それはまさにこの戦場を表すものであった。  「先の軍議の通りさ。この戦は言わば防衛戦。最小限の被害で敵を退ける必要がある。そして、この本陣が落ちたら終わりだ。だから、どうしても西の山道、東の道どちらも敵に突破されるのは困る。」  国永はそう言って、手にした枝で地面に描かれた絵の中の道を交互に示す。武人は渋い顔をし乍もそれには頷いた。が、彼にはもう一つ納得がいかない事があったのだ。  「なら、東の山に兵を割くのも賢いとは思えないのだが。西の山道、東の道の二つに絞るべきではないのか。」  食い下がらない武人に、国永はふっと小さく笑った。「手に負えない」そういう笑いであった。  「国永殿の策は良策と言えよう。今更、異論を挙げる必要はどこにあろうか。」  そう助け舟を出したのは、ゆったりとしたそれでいて威厳のある髭の武人であった。  「国永殿、貴公の知に期待している。」  髭の武人の登場に、兜の武人は不貞腐れた様に背を向ける。宛がわれた持ち場へと向かったのであろうが、その足取りは荒々しい。元より背中には「納得していない」と書いてある様だ。  その様子に髭の武人も頭を振るう許だ。  国永は目元の装飾品を指先で整えると、静かに目を伏せた。そして、先の武人が向かった先へと歩き出した。それに驚いたのは、髭の武人であった。  「国永殿、どこへ向かわれる!?」  そう武人が国永の肩を掴んで制止すれば、国永も流石に歩みを止めるしかない。  「俺も前線に出るぜ。先の軍議でも言った通り、敵軍を川岸で防ぎ続ける必要がある。勿論、ただ防ぐだけでは意味がない。君が水門を開くまで、川岸で態と焦らす必要がある。それだけじゃあない。火を放たれればそれが敗因となる事は、君もよく理解してるだろ?」  枯れ草が多く、風も本陣への向かい風、さらには斜面という立地も重なっている。一度火でも点けられれば、被害は甚大となるだろう。無論、この地が敵に渡る事も目に見えている。  「これでも武には自信があってね。心配無用さ。」  そう残し国永はするりと武人の手から抜けると、木の葉な軽やかな足取りでひらりひらりと野営地を後にした。  既に各将は各々が進むべき道へと向かい、本陣は先に比べ随分と静かになっていた。矢張り虫の囀りは聞こえないが、代わりに少し離れた地での合戦の声は響いている。  僅か許の兵たちと本陣に残った国広は、静かにその時を待っていた。当初、自ら戦場に出る事を考えていたが、歌仙が自らの出撃を願った為、国広はそれを素直に受け入れたのだ。歌仙の腕前は、国広もよく理解していた。また、歌仙ならば国広の描いたそれを容易に形にしてくれるだろう事も分かっていた。  そう、先の軍議で国広は将達に幾つかの指示を出していた。一つ、西の山道の伏兵に態とかかったふりをする事。一つ、西から東へと向かう伝令兵には手を出さない事。一つ、川岸から東の道へ向かう将は合図を確認次第直ぐに撤退する事。  敵方に名のある武人は少なからず在ると国広も聞いていた。然し、あの噂が本当でなければ、策に優れた策士がいるという話は聞いた事がない。それでも警戒をしているのは、少なからず此度の戦には狡猾な獣が潜んでいる事を察知していたからだ。  「アンタの手並み拝見させて貰う。」  そう一人戦場を眺める国広の元へ一つの伝令が届く。  「西の山道にて伏兵を確認しました。それと同時に、東の山へと伝令兵が向かった様です。」  その知らせに襤褸の下、一文字に結ばれていた国広の口角も僅かに上がる。それの知らせは、国広の読み通りであった。直ぐに川岸の将に合図を送る様にと国広は兵に指示を与える。  月光に照らされ狼煙は高く高く上がった。前線の兵を率いているのは歌仙だ。彼ならば無駄なく効率的に兵を撤退させる事が出来るだろう。同時に敵方は随分と将に恵まれていない物だ、と国広は思った。どれだけ策を練った所で、それに従わぬ将がいれば愚策に終わるだろう。そして、これが愚策に終わる事も国広には予見出来ていた。  「よし!敵が退いていくぞ!このまま押し切るのだ!」  頭には兜を被り、剣を高らかに上げた一人の将は、追撃を命令した。  「おいおい!待ってくれ!」と国永が制止の声をかけるが、それは無意味だ。東の山から流れる川を用いて敵を押し流す予定だった。川が氾濫すれば西の山道から進んでいた将達も逃げ場を失い混乱の末壊滅するだろう。そう、この川岸で暫しの時を凌ぎ切れば、相手に致命的な損害を与え撤退させる事が出来る筈であった。  折角の策が、自ら川に足を踏み入れたのでは意味がない。だが、敵軍が退いている現状を見れば、この策は見事看破され、さらには利用されようとしている事が国永にも分かる。策士策に溺れるなどという言葉があるが、まさにこの事だと苦笑している余裕は無い。自らの策で味方を壊滅させる訳にはいかないと、国永が制止の声を上げるが、士気の高まっている状況故最早誰も彼の言葉に耳を傾ける者などいないだろう。  そうしている間に上流から激しく水飛沫を散らし、大量の水がなだらかに流れていた川をかき乱す。激しい濁流は馬も兵も、全てを押し流した。  「助けてくれ!」と誰の物かも分からぬ声がした先へと、国永が手を伸ばす。必死に掴んだ手は、まだ年若い兵士の物であった。何かを言っているが、激しい水の音で丸で聞こえない。それどころか、一瞬にして激しい水の流れに国永も飲み込まれたのだった。  「らしくないな。」、心中馬鹿馬鹿しいと笑った所で、ぷつんと意識が途切れた。  月が天から消え、朝日が静かに登ろうとしていた。  国広は隣を歩く歌仙と会話を交え乍、静寂に包まれる戦場跡を見渡し歩く。元々一人で出掛けようとしていた国広だが、幾ら武術の心得があるからと言って、一人で戦場に出向いて何かあってはいけないと歌仙がついて来たのである。足元にさえ目を向けなければ、ただの散歩にも見えるだろう。昨夜の氾濫が一夜の幻であったが如く、川の流れは戦以前の静かな物へと戻っていた。  無論、時折何かに引っ掛かり辛うじてそこに留まっている残骸に加え、人や馬の屍も残されていたのだが。それらに目を向けた時、国広は僅かに動く物を見付けた。始めは風で揺れているだけだろうと思ったが、再度それに焦点を合わせれば、それは確かに自ら動いていたのだ。歌仙もその事に気付いたのだろう。  僅かに動くそれに近付き、歌仙が耳を寄せる。と、歌仙がこくり頷いた。どうやらまだ呼吸をしている生身の人間らしい。比較的軽装な身形からするに武人とは思えない。然し、ただの文官が濫りに戦場に出るなど聞いた事がない。だとすれば、可能性は一つしかない。  「君ならどうする?」と歌仙に尋ねられ、国広は直ぐに答えを出した。自ら愚策を演じる様な策士に興味はないが、今ここでそれを見付けた瞬間どこか腑に落ちない所があり、国広はその答えを出したのだった。  国広と歌仙が野営地に戻ると、兵たちは忙しなく動き回っていた。どうした事かと歌仙が尋ねれば、待機していた将が「北の国が攻めてきており、国境で防いでいる。と知らせが入った。」と言うのだ。それは国広にとっても寝耳に水の話であった。それまで北は沈黙を守っていた。それがここに来て進軍とは誰も予想出来なかった事態である。  国広は後を歌仙に任せ、一部の兵を率いてまずは主君の待つ都へと戻る事にした。そのまま北の国境へ向かいたい気持ちもあったが、既に蜂須賀と陸奥守が北へと向かっていると聞き、少し許安堵した。蜂須賀の武術は国中一と誉れ高く、陸奥守は温厚な人柄乍戦に置いては狡猾な面も併せ持つ策士だ。どちらも名将故焦らず、冷静に歩みを進めるのが良いだろうと、国広は判断した。何より妙な拾い物もある。先の戦で水計が成功していれば捕虜としての価値もあっただろうが、愚策所か甚大な被害を出した男だ。最早敵国にとっても何の価値も無いだろう。  都に戻り主君へと先の戦の報告をすれば、少し遅れて蜂須賀と陸奥守も戻った。どうやら、北の進軍は唐突な物であった物の、それ程本格的な物ではなかったらしい。「大きな戦にならなくて良かった」と蜂須賀も言っていた。  国広は一通りの報告を終えると、一つの場所に向かった。普段は足を踏み入れる事のない場所。石階段から続く廊下は少し許肌寒い。襤褸の下に隠した髪を、ひんやりとした隙間風が撫でる。  空っぽの格子部屋を幾つか横目に通り過ぎ、軈て一つの部屋の前で足を止めた。  「国広様が連れて来られてからずっと目を覚ます様子がないのです。」と、後ろを歩いていた兵士が話す。国広は小首を傾げると、兵士に部屋の扉を開ける様告げた。兵士は驚いた様な顔をしたが、直ぐに頷き部屋の錠を解く。  部屋の戸が開く様になれば、国広は兵士が止めるのも無視して、自らその部屋に足を踏み入れた。なるほど、確かに死んでいる様に動かない。国広は身を屈めると。  「おい。アンタ、いつまで死んだふりをしている心算だ。」  思い切りその頬を平手で打った。  兵士は目を丸くし、言葉を完全に失っている。が、それは見事な突破口となった。  「いたた!君の起こし方は容赦がないな!」  すっとぼけた様な声を上げて、それは目を覚ました。と、国広とそれの目が合う。すると、それは「参ったなぁ。」と頭を掻いた。  「アンタ、名は?」  国広が尋ねると、惚けた顔の男は無駄に大きな仕草で首を傾げた。国広が再度同じ質問を投げるが、男は「ふむ。」と首を傾げる許である。いい加減ふざけた態度許の男に、国広が拳をあげれば、男は慌てた様子で国広を制止しようとする。  そこで国広が拳を降ろせば、安堵の溜め息を吐いた男が考え悩む様に眉間に皺を寄せる。どうやら本当に悩んでいる様であった。  結局、この儘では埒が開かないと判断した国広が医者を呼び、男を診せれば、自身に関する記憶を失っているという。当然、先日の戦の事など丸で覚えていないだろう。無論、降れという交渉にもならない。国広は厄介な物を拾ってしまったと、心中頭を抱えた。  それから間もなくして、歌仙も都へと戻ってきた。当初は国広が再度合流し進軍を続行する予定であったが、北の動きも油断出来ない状況の中で、まだ名のある武人が控えている地を攻めるのは危険であると誰もが判断し、また主もそれに頷いたからである。  富国強兵に専念する事となった国内は、比較的平温な日々を繰り返している。  国広も仕事に専念出来ると思っていたのだが、気付けば愉快な奇襲にいつも悩まされるようになっていた。  「鶴。」  眉間に皺を寄せる国広の前で、「ん?」と小首を傾げる惚けた顔。美周郎も驚きだろう綺麗な顔には、「しまった!」と書いてある様だ。下らない悪巧みを考えていた様であるが、それを国広が見抜けない訳がない。  阿呆面を正面から殴れば、「いたた!」と鶴が鼻を押さえる。打たれても当然なのだから仕方がない。幾ら美丈夫と言えど、関係はないのだ。「遊んでいられる余裕があるのは、実に羨ましいな。」と、国広呆れて溢す。  「君は真面目過ぎる。」  鶴はつまらないと言わん許にそう言うが、常の動きに無駄はない。言動からは想像できないが、ただのお調子者ではないと、国広も分かっていた。  そう、今まさに国広の前で仕事に手をつけ始めたのは、あの戦場跡地で国広が拾った男だ。国広は、記憶の無い男を自身の副将として置く事にしたのだ。ある気掛かりな事もある為ではあったが、結局の所記憶の無い男を捨てる事も出来ないという結論に至った為である。そして、名がないのは不便という事もあり、仮の名で呼ぶ事にした。無垢色の着物には、鶴の装飾が添えられていた。だから、鶴と呼ぶ事にしたのだ。  「国広。仕事が出来る副官君に褒美をくれたりしないのかい?」  国広が手にした竹簡に目を通している間に、いつの間にか職務を全うしたのであろう鶴が、人懐こい笑顔で国広を正面から見詰めて来る。金の瞳は宛ら琥珀石の様で、油断をすれば不意に吸い寄せられそうになる。危うく意識を奪われそうになった所で、国広は我に返った。  「竹簡とでも仲良くしてろ。」  国広が手にした竹簡で白い鼻を打てば、また先の様な大袈裟な反応が返ってきた。  この様なやり取りをし始めたのはつい最近の事であるはずだが、丸でもう何年もそうしてきたかの様な錯覚を覚えてしまうのは、この男の性質故だろうと、国広も気付いていた。  季節は巡り。桃の花が淡く空を彩る頃の事である。  「仕事馬鹿の国広が、こんな所にいるなんて珍しいじゃん。」  ふらりと中庭に足を運んだ国広にそう声をかけたのは、加州であった。隣には大和守の姿もあり、どうやら花見を楽しんでいたようだ。  「そういえば、国広、最近顔色良くなったね?」  大和守に指摘をされ、国広は小首を傾げた。国広には丸で心当たりがなかったからだ。然し、大和守も加州もその理由を知っている様であった。  「鶴さんが来てから、なんか楽しそうじゃん。俺、いつかお前は過労死するんじゃないかって心配してたんだよね。まぁ、長谷部ほどじゃないけど。」  きゃっきゃと笑う加州と大和守。  国広は「厄介事が増えただけだ。」と首を振った。無論、鶴が驚く程に仕事の出来る男である事は確かで、気付けば国広の仕事冴えもさらりと片付けてしまうからだ。褒美が欲しいと襤褸を捲られる事については、ほとほと困り果てていたのではあるが。  「ところで、国広。最近は東の国境が騒がしいみたいだね。」  東の国境とは、以前国広と歌仙が兵を率い、見事に勝利した土地であった。そして、記憶の無い男を拾った土地でもある。長い間隣国は沈黙を守っていたが、ここに来て遂に進軍を決めた様だ。今は国境の砦で防衛戦が展開されているが、砦で防ぐにも限界がある。  「もし国広が出るとなれば、鶴さんを連れて行くの?」  大和守にそう尋ねられるが、国広は直ぐに答えなかった。当然、軍師という役職を与えられているからと言って国広に全ての軍事権がある訳ではない。しかし、あの男が国広の副将であり、また国広直属の副官を務めている以上、多少は融通が利くだろう。然し、国広はあえて答えた。  「それは俺が決める事じゃない。」  軍議の場で決まる事だと。そう国広が告げれば、加州は呆れた様に溜め息を吐いた。  その場に居る誰もが或事に気付いていたのだ。そして、国広は襤褸で己の姿を隠す様に、自身の目を覆ってしまいたかったのだ。  数刻に及ぶ軍議を終え自身の執務室へ戻った国広が見た物は、竹簡を手に無言で仕事をする鶴の姿だった。普段とは丸で別人の様な顔をしているので、国広も声をかける事に少々戸惑う。と、国広の存在に気付いたのだろう、顔を上げた鶴がいつもと同じ笑顔を国広に向けた。  「国広、お帰り。どうだった?」  「出立の目処が立った。」と、国広が告げる。すると、鶴は「ふむ。」と納得した様に頷いて、それからこう行った。  「あの峠を越えるなら、南の山道には注意した方が良い。この時期は、よく茂るからな。」  それは丸でその土地を見てきたかの様な言葉であった。歌人は居ながらにして名所を知るとは言うが、策士は必ずしもそうではないだろう。否、勝敗を左右する物である故、推論で話など出来ないだろう。  既に国広は或一つの確信を持っていた。そして、目の前の白い男に、手を差し出した。  「あれを持ってるんじゃないのか?」  そう国広が静かに鶴を見据えれば、「こいつは驚いたな。」と鶴が笑って懐に手を入れた。そして、その懐から取り出した物を、国広の手の上に乗せる。細い銀細工の装飾品、それは国広がずばり存在を予想していた物であった。  「もし、記憶が戻ったら、俺は不要になるんだろ。」  「それなら。」と言葉を溢し、国広は白い手に銀細工を握らせた。そして、その白い手を己の胸元に導く。刃物に見立てた銀細工。その先を胸元に当てて、国広は鼻で笑って見せた。  「アンタの手で逝かせてくれ。」  国広は或事に気付いてしまっていたのだ。それでいて、それを受け入れたくなかったのだ。それ以上動けずにいる国広は、急に視界を広げられた。国広が深く被っていた襤褸を、鶴がその頭から奪ってしまったからだ。雪の様に白い手が、国広の頬を撫でる。  「堀川が誇る名軍師様が酷い顔だぜ?国広、良い子で留守番が出来たら、褒美をくれるかい?」  琥珀が楽し気に笑えば、翡翠は不安を抱いた儘、こくりと頷いた。すると、鶴が国広の身体を引き寄せる。そして、その耳元で囁いた。  「国広、俺に良い手があるんだ。」  穏やかに流れる川を過ぎ、緑の茂る丘を越えた所に築かれた野営地。少し許の山道となっており、敵陣本陣に切り込む為には、北の山道、中央の道、南の山道があった。  今回の戦の目的は、敵遠征軍を迎撃するだけではなく、確実に追い返すという事が、既に都での軍議で決まっていた。北の国境を死守する為にも全ての将を集中させる事は出来ないが、此度の戦には国広、歌仙の他に加州も出ている。  馬に跨がり、中央の道へと兵を進めたのは歌仙だ。南北の山道と比較して、中央の道は道幅が広い。正面からぶつかり合う事は避けられない土地である為、戦場での統率能力が高い歌仙が先導する事となったのである。  それから間もなく、加州も北の山道へと部隊を進める。南の山道にて火計を用いるとの案もあったが、国広がある心当たりがあった為、別の策を用いたいと提案した。その提案に異を唱える者はおらず、故に加州は北へ、国広が南の山道へと向かう事になったのだ。  国広は兵士たちに、必ず敵兵が奇襲を仕掛けてくる事を告げた。そして、一人呼び出すと、その兵の頭に己と同じ様な布を被せた。そして、その顔に銀細工を添える。  鶴に言われた通り万全の準備の上で国広は、本陣を出た。歌仙や加州に遅れ本陣を発ったのは、中央と北の山道を囮とし、南の山道を抜け、敵本陣に奇襲をかける為である。無論、それは敵が南の山道へ直ぐに進軍する事はないと断定出来たからである。そして、その断定が出来たのは、敵にはある狙いがあると知っていたからだ。  南の山道を暫く進むと鶴の言っていた通り、少し先からは緑が青々と生い茂っている。緑が直接道を被ってはいないが、脇の林は深い緑に包まれていた。  国広は言葉には出さず、兵たちに合図を送った。そして、茂みに差し掛かる。  すると、案の定伏兵が茂みから飛び出した。兵を率いていたのは、風格のある髭の武人であった。  「奇襲を受けても動じないとは、さすが噂に名高い国広殿の兵。」  「この程度の策で俺を討ち取ろうと言うのなら、俺は随分と舐められたものだな。」  襤褸で隠した儘国広が鼻で笑えば、髭の武人も秘策があると言う様に手を差し出した。それは、国広へではない。銀の装飾へと差し伸べられた物だった。  「国永殿、お待ちしておりました。」  布で頭を覆い僅かな隙間から覗く銀の装飾で、髭の武人はそれが国永と判断したのであろう。然し、その期待を国広は容易に打ち砕いて見せる。  国広の指示で布を脱ぎ捨てたそこには一人の兵士が居るだけであった。それには髭の武人も愕然とした様子を見る。  国広は、兵から銀の装飾を受け取ると、髭の武人へ投げて寄越した。  「ここにこれがあり、ここへ待ち人が現れない理由は、最早説明の必要もないだろ。」  国広の言葉に敵兵は動揺を隠せない様で騒めきだす。  髭の武人は一つ舌打ちをすると、兵達を宥めようと必死に声を上げる。だが、ここは戦場である。動揺する部隊を破るのは簡単であった。  髭の武人は半壊する部隊を率いて撤退していくが、それを追いかけた所で敵本陣への奇襲には既にならないだろう。然し、国永の死を悟った敵軍は総崩れとなり、満身創痍の様子で退いていった。  国広が野営地に戻ると、既に帰還していた歌仙と加州が出迎える。  「さすがは国広。」そう笑う加州は、国広の肩に腕を回す。歌仙も勝ち戦に、晴れやかな顔をしていた。然し、国広にはいまだ気掛かりな事があった。  「歌仙、加州。国永という名に心当たりはないか?」  唐突な国広の問いに、歌仙も加州も互いの顔を見合わせ、直ぐには答えなかった。然し、彼らも心当たりがあるとすれば一つであったのだろう。だからこそ、答えることが出来なかったのだろう。それは問い掛けた国広も同じであった。  その夜は野営地にて過ごした国広であったが、翌日日が昇ると、後の事は歌仙と加州に任せ、国広は直ぐにその地を発った。向かう先は一つである。  馬を走らせ、急ぎ足で国に戻ると、国広はまずは主へ此度の戦について報告を行った。然し、国広にはそれ以上に成さねばならぬ事があった。無論、それを公言はしないのだが。  報告も早々に終わらせると、国広はその足で直ぐに自身の執務室へ向かった。出立前と何一つ変わらぬ部屋には、相変わらずの様子の鶴の姿があった。  「おかえり、国広。」  へらりと笑う鶴に対し、国広は目を細めた。それには、鶴も小首を傾げる。  「おや?俺はまた君を悲しませる事をしたかい?あ、置き去りの月餅は食っちまったぜ。腐ると勿体無いからな。」  張り詰めた空気を消し去る為か、鶴が子供染みた話を勝手に始める。然し、国広はそれには応えず、代わりにこう告げた。  「アンタ、いつまでその芝居を続ける気だ?五条の鶴丸国永。」  低く唸る様な国広の声音。この男が本当にただ少し許利口なだけの男であったら、逃げ出していたかも知れない。然し、そうはならない事を国広は予見できていた。  無言の儘の目の前の男に対し、国広は話を続けた。  「水計で北の進軍まで時間を稼ぐ、ただそれだけがアンタの狙いだと思っていた。そして、その計略は失敗した、そう俺は思っていた。」  嘗て国広と歌仙が東へ進軍をした際、敵の水計を逆手に取った事があった。彼らにとっては防衛戦であり、水計が成り、川の氾濫と北の進軍が重なれば、国広達は退かざるを得なかっただろう。無論、それは国広により愚策に終わったのだが。  国広は言葉を紡ぐ事を止めず、静かなそれでいて確りとした足の運びで鶴に近付く。  「あの戦場で死んだ男は家柄だけで地位を得、野心も強く、実は主君からも厄介者に思われていたらしい。そして、アンタは見事に主の邪魔者を排除した。」  眈々と話を続ける国広に対し、鶴はただ沈黙を守っていた。国広は言葉を続ける。  「そして、記憶のない降将を演じ、埋伏の毒として来るだろう機会を虎視眈々と狙っていた。違うか?」  国広は帯刀していたそれを抜く。抜かれた刃は炯炯と。然し、国広はそれを己で握る事はせず、白い手に握らせた。そう、銀細工を握らせた時と同じ様に。  「アンタの本当の企みは分からない。でも、もしアンタが目的を成してこの国を去ると言うなら。」  国広は刃を握らせた白い手を、己の胸元に導く。そして、襤褸の下、言葉を溢した。  「その前に。アンタの手で、俺を逝かせてくれ。」  自身の翡翠が露に濡れている事を、国広は知っていた。襤褸で隠している為、相手には分からないだろう。然し、国広にはよく分かっていたのだ。その理由も含めて。  すると、沈黙を守り続けていた鶴がふっと笑った。白い手は刃を床に捨てると、襤褸を纏った身体を引き寄せた。あの時と同じ様に。  「国広、君は利口な子だ。でも、命を粗末にするのは、感心出来ないな。そして、君は根本的な部分で間違っている。」  襤褸を剥がれ明かりのもとに晒された金糸の髪をくしゃりと撫でられれば、国広は無言で首を傾げた。既に全て知られてしまっているのだろう。最早、濡れた翡翠を隠す事などしなかった。  鶴、否既に鶴丸国永に戻った男は、ふっと笑った。  「俺は元々この国の人間だ。少し君たちを試させて貰ったんだ。噂に違わぬ賢い子たちで、安心したぜ。」  国永の告白に、流石の国広も言葉を失った。裏の裏は表と言うが、まさにこの事かと。確かにこの男が国広と同じ主に仕えている身であったとすれば、国広の疑問は全て解消される。そして、この年長者が幼子を諭す様な物言いに、絶対にそんな筈はないと思い乍も予想していた答えが生々しくなる。  「アンタは本当にあの三日月宗近に仕えた鶴丸国永なのか。」  三日月宗近。それは随分と昔、この地を平定した人物の名である。そして、鶴丸国永と言えば、その智謀にて三日月を天下へ押し上げた人物の一人である。然し、仮に鶴丸国永本人であったとすれば、人の寿命はとうに超えているだろう。国広は濡れた儘の眼を丸くするが、鶴丸はからからと楽し気に笑う。  「君は仙人を見るのは初めてかい?なら、仙人に見初められたのも初めてだろ?改めて、世話になるぜ。」  金糸の髪に口づけを落とされれば、国広は改めてとんでもない拾い物をしてしまったと。そして、それと同時に最早逃げ場はない事を悟る。  策士、策に溺れる。  ならば、溺れたのは誰であっただろうか。 ***  すっと抜ける初夏の風。  西日が格子窓から差し込めば、床には一つの影が描かれた。否、元来二つであった筈の影が、今は一つに重なっているだけである。卓の上、楔を受け入れる国広は、金糸を揺らし乍白い背中に縋った。  「国広。」  琥珀色の眼に見詰められれば、国広はその翡翠をとろりと融かすしかない。どう足掻いた所で国広は、この雪花の様な男には敵わないのだ。名を呼んでくれと言われれば、国広は乱れた呼吸の間、狂った様に「国永。」と男の名を繰り返す。  卓の端に綺麗に並べられていた竹簡は、いつの間にか床に転がっていた。代わりに、本来執務室には有り得ないだろう音が木霊する。それは至極艶やかで卑猥な音色。一層繋がりが深くなれば、国広は背を大きく撓らせる。と、予想外の第三者の声。  「国広様。」  執務室の入り口に呆然と立ち尽くしていたのは、年若い一人の文官。その文官と目が合った時、国広はさっと血の気が引いていく様な気がした。然し乍、国広を腕に抱いた男は、「突然の来客とは驚いたぜ。」と笑った。無論、国広は笑っていられる状態ではない。支離滅裂に言葉を並べ、白い男を突き飛ばすと、襤褸で己の身体を隠したのだった。  「国広。いい加減、機嫌を直してくれ。」  月明かりに照らされた部屋。牀の上で並び乍らも、国広は鶴丸に背を向けていた。褒美が欲しいと所構わず求められる事には、国広も困り果てていた。無論、「場所を考えろ。」や「人が来たらどうする。」と拒絶の言葉を口にし乍らも結局この男を受け入れてしまうのは、国広が心底この男に惚れているからである。  雪の様に白い指先が襦の合わせから忍び込もうとしているのを、国広は寸前の所で阻止する。  「おい。アンタ、何考えてる。」  そう目くじらを立てて国広が振り返れば、そこには案の定琥珀の眼があった。然し、それは悪戯を思い付いた子供の様な、いつもの目ではなく。悲し気で、それでいて慈しむかの様な、丸で満月の様な双眸であった。その様子に、「国永?」と国広も堪らず眉を下げる。  「国広。君は綺麗だ。きっとこの先何年経っても、何十年経っても、君は綺麗な儘だろう。」  白雪の指が金糸をその先で弄べば、国広は途端下がっていた眉を吊り上げる。美周郎も驚くだろう美丈夫にその様な事を言われた所で、嫌味にしか聞こえない。加えて言えば、国広は自身の容姿について言われるのが嫌いであった。それは、鶴丸もよく知っている筈である。  国広が反論の言葉を口にしようとした所で、それを塞がれてしまう。それは器用な舌に絡め取られてしまったのだろう。結ばれた無色の糸は、離れて行くそれを惜しむ様に唇に居座る。  鶴丸の白い指が、国広の唇を撫でる。  「君は幾ら年を重ねようが綺麗な儘だろう。でも、人である以上いつか朽ちてしまう。」  肌蹴る襦。白い手が添うのは、まだ成長しきらぬ太腿。その生を確かめる様に、白は這う。  「俺は君の身体にまじないを施そうと思っている。君は千年の時を、俺と生きてくれるかい?」  「俺にアンタと同じ仙人になれと?戦がなくなれば、軍師は不要になる。」  国広は思った。確かに鶴丸と生きる事は楽しいだろう。然し乍、平和な世が訪れた時、己はどうすれば良いのかと。軍師は戦ありきだ。歌仙の様な文化人であれば、陸奥守の様な物事に対する柔軟さがあれば、戦のない世でも必要な存在になれるのかも知れない。然し、国広は根っからの戦人だ。結局、戦場での生き方しか知らないのだ。  「国広。」  目を伏せる国広の耳元で、鶴丸が吐息混じりに囁く。  「戦がなくなったなら、人の世を離れて、二人で山奥にでも住もう。そうだな、桃源郷みたいな所が良いな。そこで、夫婦の真似事でもするなんてどうだい?」  白花色の指が誘う巧みなそれに、国広は身体を捩らせ乱れた息を吐いた。  国広がまともに返事など出来ない事を知っているだろに、鶴丸は言葉を紡ぎ続ける。  「確かに少し許大胆だが、俺は君の作る飯が一番好きだ。君が俺の着物を干している後姿程、心惹かれる物はない。君の些細な仕草を目にする度に、君が俺の伴侶になってくれたならと想像するのさ。国広。」  牀の上、重なる影。絡み合う指先。国広は狡猾な笑みを浮かべ、白い首筋で囁き返す。他の誰にも聞かれぬ様な幽かな声で。  それを聞いた鶴丸は、参ったと言わん許に笑った。  「凄い殺し文句だな。どうやら、俺は君に敵いそうもない。愛想を尽かされない様、君が誇れる夫として頑張らせて貰うさ。」  策士、策に溺れる。  ならば、溺れたのは誰であっただろうか。  囀る鳥の声で、国広は目を覚ます。愛らしくも少しお節介な小さな家族は、こうして毎朝国広を起こしにやって来るのだ。  未だぼんやりとした思考の儘、国広はゆっくりと身体を持ち上げる。が、直ぐに下腹部の違和感に気が付く。痛みはないが、違和感があるのだ。  「国広。そんなに動いたら、折角注いだ物が零れてしまうだろ。」  そう国広の腹を摩ったのは、白魚の様な手。国広が首だけで振り返れば、国広をすっぽりと抱く鶴丸の顔があった。触れるだけの唇。白い手は満足げに、国広の腹を撫でた。  途端、国広は昨夜の事を思い出す。我を忘れ、はしたなく足を開いて、強請ったのだ。もっと愛して、と。鮮明に思い出してしまった昨夜の出来事に、国広の顔は一瞬にして熱を持つ。  「ははっ、君は相変わらず可愛いな。後悔しても、もう遅いぜ?」