葬死華

現代邦画ホラーパロで、養護教諭つるさん×高校生国広くん(元々刀剣男士だけど、人に転生したようです)。
・名前のあるモブが大量に出現しロストします。
・国広を除き全体的に刀剣男士の記憶があります。
・結構ぐろい感じの描写があります。
・軽いベッドイン描写
※この作品は、国広を山姥切と表記しています。



 山姥切は溜息を零し、窓の外を見つめた。
 夕焼雲が、朱色の裾を棚引かせ、風に攫われた。
 九月も半ばに入り、吹く風も肌寒くなる。日も落ちれば、蟲も詠うだろう。
 紅に染まる教室にただ一人。否、もう一人。
 三日月宗近。独特な雰囲気を持つ国語教師だ。専門教科は古文。丸で絵巻物の世界の様な喋り方をすると噂される一方で、その容姿は女子生徒から絶大な支持を得ている様だ。それは女子生徒と接点のない山姥切は疎か、他人事に興味がないと言う大倶利伽羅さえ知っている事実だ。
 山姥切はちらり三日月の様子を見ると、視線を窓の外に移した。教室には山姥切と三日月しか居ない。丸で世界から切り取られた空間の様だ。
 「山姥切、余所見をしておると終わらぬぞ。」
 窓の外を眺めていた山姥切が、教室の中に視線を戻すと、目の前に三日月が立っていた。三日月は目を細めて上品に笑う。どこか浮世離れした姿は、絵画から抜け出してきた様でもある。その姿に、山姥切は女子生徒たちの気持ちが少しだけ理解出来た。
 三日月はすっと椅子を引くと、流れる様な仕草でそこに腰掛けた。夕日を背負い嫋やかに笑う三日月。
 既視感を覚えた山姥切ははっと息を飲むが同時、ひゅるりと窓から迷い込んだ秋風が山姥切の深く被ったフードを飛ばした。慌ててフードを被り直そうとした山姥切の手に、長い指先が添えられる。
 「山姥切、そなたは。」
 そう三日月が何かを言葉にしようとした時であった。
 「先生!部活しよ!」
 幼子の様な明るい少女の声が、紅色の教室を染め上げる。その声に誘われて山姥切がそちらを向けば、そこには無邪気を絵に書いた様な女子生徒が一人。
 「おや、これは加藤ではないか。斯様な時間にどうした?」
 燥ぎながら駆け寄ってきた女子生徒に、三日月が穏やかに笑む。普通の女子生徒ならば卒倒してしまいそうな笑顔だが、どうやらこの加藤は他の女子生徒とは少しばかり違うらしい。身振り手振りに子供の様に話す。
 「実は実は凄い話聞いちゃったんだ!」
 山姥切の存在など気付いていないように、加藤と呼ばれた女子生徒は話し始める。たが、山姥切にとっては好都合であった。このまま三日月が部活に行くとなれば、補習授業を中止せざるを得ない。山姥切は手持ち無沙汰にシャーペンを指先で回しながら、二人のやり取りを見守った。
 「ふむ、そうだな。では、部活をするか。今宵辺りはどうだ?」
 三日月の予想外の言葉に、山姥切は己の耳を疑った。しかし、三日月は何でもない事の様に続ける。
 「今宵、九時頃ではどうだろう?」
 平然と尋ねる三日月に、了解と無邪気に頷く加藤。山姥切は無言のまま、ノートを這う文字の羅列を追う。そうする事で二人の話を耳に入れない様に徹していた。
 「…という事だ。山姥切。」
 唐突に自分の名前を出され、山姥切は思わず顔を上げた。どの様な話がされていたのかなど、山姥切には分からない。しかし、何か厄介事に巻き込まれた事は間違いない。
 「今日の九時に、××神社に集合!よろしくね、ひよこ君!」
 加藤は幼さを残す顔で笑い、山姥切のフードを被った頭を撫でた。言葉の通り、丸で小動物を撫でるかの様に。山姥切が顔を顰めれば、加藤はきょとんとした様子で小首を傾げる。
 「触られるの嫌いだった?ごめんね。あたし、加藤。じゃ、今夜会おうね!絶対来ないとダメなんだから!」
 そう主張して加藤は身を翻すと、跳ねる様に扉の前まで進む。そこで一度振り返ると、「絶対来てね!」と手を振りながら去っていった。
 山姥切は一つ深い溜息を吐くと、三日月へと視線を向ける。
 「アンタ、一体何の顧問なんだ?」
 二人だけで簡単に活動の内容を決められるという事は、相当少人数の部活なのだろう。しかも、かなり影の薄い部活だ。山姥切は心当たりのある部活をいくつか脳裏に浮かべるが、どれも夜間に活動している部活とは到底考えられない。
 三日月はふふと笑うと、加藤がした様に山姥切の頭を撫でた。
 「あまり皆には言っておらんからな。オカルト部という部活の顧問をやっておる。部員は先程の加藤だけだがな。」
 何でもない事のように話す三日月だが、山姥切は開いた口が塞がらない。それは三日月の回答が予想外であったという事もあるが、それ以上に本当に厄介な事に巻き込まれたと思い知らされたからだった。

 太陽は地へと帰り、漆黒の空には道化師の様に不気味に笑う上弦月だけが揺蕩う。
 街灯の少ない街外れに××神社は在った。鬱蒼と生い茂る碧の山に続く甃の階段。直路を覆うは、深緑の軒並み。
 山姥切は一人溜息を吐く。待ち惚けとはまさにこの事か。階段に腰掛け、月明かりに照らされる地面を見つめていた。
 しばらくして人の声が聞こえてくる、山姥切が声のした方を見れば、少しばかり離れた所に四つの人影があった。男女二人ずつらしい。彼らは山姥切のいる場所を目指している様であった。
 山姥切は立ち上がると、尻に付いた砂埃を軽く払った。そうしている間に、人影は次第に近付いて来る。ついにはその姿を捉える事が出来る場所までやって来た。三日月でもなければ、加藤でもない。唯一知っているのは、養護教諭の鶴丸国永位であった。
 「よっ、三日月から聞いたぜ。君が来るとは予想外だ。」
 「好きで来た訳じゃない。」
 からからと笑う鶴丸に、山姥切は目を尖らせた。本当ならば丁重にお断りしたかったのだが、結局断るタイミングを逃し参加せざるを得なくなってしまったのだ。
 「ねぇ、もしかして!山姥切国広!?」
 そう唐突に山姥切の名を口にしたのは、一人の女子生徒だった。山姥切の記憶にはないが、どうやら彼女の方は山姥切の事を知っているらしい。急激に距離を縮められれば、山姥切は比例する様に後ろに仰け反る。
 「アタシ、井上。去年の学園祭から、山姥切君の事気になってたんだよね。こんな所で会えるなんてラッキー!」
 興奮する様に山姥切の腕を掴む井上。山姥切は何とか逃げようと試みれば、逆側から一人の男子生徒が呆れた様に井上の腕を引いた。
 「お前、さっきまで鶴丸先生にべったりだっただろ。」
 「それはそれ、これはこれ。清水は脳筋だから仕方ないよね。山姥切君の事知らなくても。」
 ふんと鼻を鳴らす井上は、得意げに山姥切の腕を引く。
 「ししちゃんと大倶利伽羅君との学祭ステージまじかっこよかったんだから。」
 「ねー。」と楽し気に同意を求めて来る井上に、山姥切は学園祭、否、部活に所属した事を後悔した。元々目立つ事は苦手だったので、入学した当初は帰宅部一択であった。それが馴染みの獅子王に捕まり、結局大倶利伽羅共々軽音部などという目立つ部活に所属する事になってしまったのだ。獅子王が楽しそうにしており、大倶利伽羅もまんざらでもないという顔をしていたので、山姥切も何だかんだ言いながら悪くないと思っていた。が、この時ばかりは獅子王を恨んだ。
 「井上さん、およしなさい。山姥切君も困ってしまいますわ。」
 先程まで黙って見守っていた女子生徒が口を開く。闇夜に溶ける様な長い黒髪が、風に吹かれたひらひらはためいた。すると、井上が露骨に表情を歪める。
 「ふん、流石生徒会長の齋藤様ですね。いい子ぶってんじゃないわよ。」
 「別にいい子ぶっている訳ではないわ。誰から見ても山姥切君が困っている様に見えたから、およしなさいと言っただけよ。」
 口論が始まりそうな現状に、山姥切はほとほと困り果てた。どうしたものか、いっそもう何も考えずに流れに任せようか、そう山姥切が全てを放棄しようとした時であった。白い腕が山姥切の身体を攫う。
 「はいはい、そろそろお開きにしようか。君たちが取り合いをするなら、山姥切は先生が預かっておこう。」
 片目を瞑り笑う鶴丸。それには流石に井上も口を噤み、齋藤もそれ以上何も言わなかった。
 「みんな!遅くなってごめんね!」
 沈黙を切り裂いたのは、あの幼子の様な声であった。子供の様に駆けて来る加藤。その後ろには三日月の姿もあった。
 「遅くなって、ごめんね!ひよこ君。」
 そう無邪気に笑う加藤は、教室同様に山姥切の頭を撫でた。どうやら彼女の山姥切へのベクトルは、井上とは異なる様だ。言うなれば、ペットを可愛がるそれに近い。山姥切が横目で見れば、鶴丸は笑いを堪えている様だった。
 山姥切が鶴丸に悪態を吐こうとした時、それよりも先に三日月が口を開いた。
 「さて、そろそろ参ろうか。あまり帰りが遅くなる訳にはいかぬからな。」
 「うん、そうだね!本当は肝試しをするなら、丑三つ時が良いかなって思うけど。みんな帰りが遅くなるといけないもんね!」
 小学生の様に燥ぐ加藤に、齋藤の表情が軟化する。
 「そうですね。では、行きましょうか。久しぶりにオカルト部に戻れて嬉しいわ。呼んでくれて、ありがとう。加藤さん。」
 「へへっ、齋藤先輩と三日月先生との部活で嬉しいのは、あたしもおんなじだよ。ねっ、早く行こう!」
 そう齋藤の手を引き階段を目指す加藤。その後を不貞腐れた井上の背を押す様に清水が続く。このまま騒ぎに乗じて逃げ出せないかと考えた山姥切だったが、その腕を両脇から囚われてしまえばそれも叶わない。
 「では、行こうか。山姥切。」
 楽し気に告げられた死刑宣告に、山姥切は大きなため息を吐いて覚悟を決めた。

***

 天へと延びる甃の直路は、既に行き交う人もなく。利休鼠の衣を被り、密やかに佇む。時折過ぎる冷気を帯びた秋風が、ざわりざわりと木々を揺らした。
 「なんか、物語の世界に迷い込んだみたい!」
 加藤が楽し気に甃の階段を跳ね上がる。それに対し、三日月が穏やかな表情を浮かべている。否、表面上は穏やかな顔をしているが、何か心配事があるのだろうと、鶴丸は察した。それは鶴丸も同じだったからだ。
 嘗て刀剣男士であった鶴丸は、いつの間にか人の身を得てこの時代に生きていた。そして、偶然にも山姥切や三日月に再会した。三日月は刀剣男士としての記憶を保持しており、鶴丸の事も直ぐに気が付いた。しかし、山姥切はそうではなかった。刀剣男士としての過去を忘れ、ただの一人の高校生として生きていた。そう、少しばかり霊力の強い少年として。
 「山姥切、大丈夫か?」
 鶴丸が手を差し出せば、山姥切は心配無用だとそれを断る。山姥切にとってこの程度の階段大した事もないだろう。鶴丸や三日月が感じ取っている様に、やはりこの地には何かがあるのだ。
 一瞬吹き抜けた強い風が、周りの木々と共に山姥切のフードを揺らした。金糸の下にあるはずの碧の目が、底なし沼の様に濁る。

 「此処は此岸と彼岸の堺。此れより先は、彼岸へと続く直路。それでも向かうと?」

 低い声が告げるそれは、丸で何かの呪詛の様で不気味だった。山姥切の異変に気付いた鶴丸は、すぐさま山姥切に駆け寄る。その肩を掴めば、糸が切れた操り人形の様に山姥切の身体が傾いた。
 「おっと!ひやっとしたな。」
 崩れ落ちる寸前の所で、鶴丸は山姥切の身体を掬い上げる事に成功した。数度瞬きをした山姥切の目は、いつもの碧に戻っている。どうやら正気に戻った様だ。しかし、何が憑いているかは分からない。鶴丸や三日月の様に記憶があれば、自己防衛も容易だろう。そもそも、悪意ある物はそうそう寄り付けない。しかし、記憶のない山姥切は、防衛手段なく霊力を垂れ流している様な物だ。依代にするにはうってつけの存在だろう。
 「山姥切、今からでも遅くない。君は帰った方が良い。」
 鶴丸はそう提案するが、山姥切は首を横に振った。少し先の方では、井上と清水が子供の様に言い争っている。
 「なんだよ、お前やっぱり怖いのか?」
 「そんな事ないわよ!そういう、アンタこそびびってるんじゃないの!?」
 その様な会話を聞いてしまえば、矜持の高い山姥切は引き返す事が出来ないだろう。卑屈だか負けん気の強さは人一倍だ。鶴丸は諦めて、山姥切から手を離した。もう山姥切が倒れてしまう事はなかった。
 「ここは真剣にまずい場所かもしれん。気分が悪くなったら、直ぐに言うんだ。良いか?」
 「…分かった。」
 訝しむ様な表情をする山姥切だが、鶴丸は言わずにはいられなかった。嘗て愛した子が物の怪の類に狙われていると知って、黙っている事など出来ようか。
 勇んで甃の階段を上がる山姥切の背を見つめ、鶴丸は後に続いた。階段を進むにつれて、鶴丸はある事に気付く。否、誰もが気付いていただろう。
 「なんかこれだけ、彼岸花ばっかだと気持ちわりぃよな。」
 皆の気持ちを代弁するかの様に、清水が言葉にした。
 甃の階段を囲う様に、深紅の彼岸花が生い茂っていた。それは幻想的というよりは、一層不気味であった。血を啜り咲いたかの様な深い深い赤に染まる花の群れは、侵入者を拒む番人にも見える。
 「彼岸とは、即ちあの世の事だ。気持ちが悪いと感じてしまうのも、無理はなかろう。」
 告げる三日月の言葉に、加藤が小首を傾げる。
 「じゃあ、彼岸花はあの世の花って意味なの?だから、お墓にたくさん咲いてるの?」
 「本来、彼岸花というのは、正式な名前ではないの。」
 三日月に代わり口を開いたのは、齋藤であった。博識というよりは、マニアックなのかも知れない。
 「彼岸花は曼珠沙華と言うのよ。でも、地方によって狐火花、幽霊花なんて呼び方もあるわ。」
 「なんか不気味な名前ばっかじゃない。」
 齋藤の話に、思わずであろう井上が割って入った。井上の言う事は最もである。それに対し、三日月が頷いた。
 「所説あるが、子供が悪戯に摘み取ってしまわぬ様にとの説もある。ある地方では、家に持ち帰れば家が焼ける、と教えていたようだ。彼岸花には毒があるからな。」
 「あ、知ってる!触るとかぶれちゃうんだよね。」
 同意を求める様に加藤が視線を向けるので、鶴丸はあぁと頷いた。
 「そうだな。茎の毒はそれほど強くもないから、かぶれるだけで済む。でも、根の毒はなかなかに強い。誤って口に入れれば、死の危険もある。」
 「なんで、そんな危険な物をそのままにしとくんだ?刈り取っちまえば良いのに。」
 理解できないとばかりに言ったのは清水だ。それが普通の人間の反応だろう。しかし、齋藤は首を振った。
 「昔は貧困などの問題もあったわ。食べられる物ならば、何でも食べたそうよ。酷い時には、それこそ家の壁を崩したりもしたそうだわ。彼岸花の根には、豊富な栄養分があるの。それで非常食として植えていたともいわれているわ。もちろん、昔の人たちは毒性も知った上で土竜除けに、畑や墓地の周りに植えたみたいね。」
 丸で本でも読み上げるかの様に話す齋藤に、ある者は感心し、ある者は聞き流し。鶴丸は変わった子だな、程度に様子を見守っていた。
 その時、再び強い風が通り抜けた。

 「…相思華。共に生きる事を許されぬ花。」

 それは先程まで沈黙を守っていた山姥切が、ぽつりと小さく呟いた言葉だった。鶴丸が咄嗟に山姥切の手を掴めば、山姥切は驚いた様に鶴丸の顔を見る。どうやら先程の言葉は無意識だったのだろう。
 「確かにそういう言い方もあるわね。葉が姿を現せば花は落ち、花が咲けば葉が消える。でも、共に生きる事を許されぬ花、なんて。山姥切君は、詩人なのね。」
 くすりと笑う齋藤。山姥切の異変に気付いているのは、間違いなく鶴丸と三日月だけだ。山姥切自身、自分の身に何が起こっているのか理解していないだろう。「…昔、読んだ本の受け売りだ。」と、山姥切は誤魔化す様に答えた。

***

 甃の階段を上り切れば、そこには小さな社が在った。ろくに手入れされぬその社は、屋根には苔を湛え、壁には蔦を絡ませていた。そして、その社を囲うのは、やはり彼岸の花だった。
 あの階段を上れば流石に誰でも疲れるだろう。皆、思い思いに腰を下ろし、一息吐いた。山姥切も端に置かれていた石に腰を下ろした。
 山姥切は階段を上り始めた時から、異様な体のだるさを感じていた。それは丸で濡れた服でも着ているかの様な、ずっしりとのしかかる様な重みだった。それに加えて、耳鳴りが酷いのだ。
 「みんな!目的地はまだ先だよ!」
 休憩終わり!と言わんばかりに、加藤が元気よく立ち上がった。
 山姥切も遅れぬ様にと、重い身体を持ち上げた。しかし、立ち上がった瞬間、酷い眩暈が襲ってくる。それと同時、エコーがかった様な幾つかの声が、どこからともなく飛び交ってくる。山姥切は思わず、両耳を覆った。それでもなお、幾つもの亡者の様な声が、山姥切から離れなかった。
 「おい、山姥切!」
 鶴丸の声が、全ての声を打ち消した。山姥切が顔を上げると、そこには山姥切の両肩を掴んだ鶴丸が立っていた。
 「大丈夫か?酷い汗だ。」
 鶴丸にそう指摘をされて、山姥切は初めて自分が酷い冷や汗をかいていた事に気付いた。額から流れた汗が、顎の線を伝い静かに地面に零れる。
 「ふむ、いささか良くない物に憑かれた様だな。ここで先生の提案なのだが、今宵は引き返さぬか?ここは肝試しには向かぬ場所の様だ。」
 所詮怪談話など迷信だと思いながらも、三日月が発する言葉はどこか説得力があった。誰しもが引き返そうと口にした中で、一つ異なる声が響く。
 「私はこのまま進むわ。良くない物が居るなら、余計に行ってみたいの。」
 そう強く主張したのは齋藤だった。ただの怪談好きの範疇を超えているのかも知れない。その目は真剣で、説得するのは困難そうだ。
 「…俺は大丈夫だ。少し寝不足なだけだ。」
 山姥切がそう言えば、齋藤は満足げな笑みを浮かべる。三日月は渋い顔をしていたが、終には諦めた様に目を伏せた。それよりも先程から山姥切の腕を離そうとしない鶴丸の事が、山姥切は不思議で仕方がなかった。

 「この鳥居を潜って先に行くの。」
 加藤は社の隣にある鳥居を見上げて行った。社同様かなり古い鳥居らしく、赤い色は薄れ、代わりに利休鼠をたっぷりと化粧いていた。
 「近所の子の話だと、この先でお屋敷を見たんだって。でもね、その子たちはお屋敷には入らずに、そのまま帰って来たって言ってた。」
 そこで一度言葉を区切った加藤は、意を決した様に矢継ぎ早に言葉にした。
 「なんか、すっごく嫌な感じのする場所だって言ってた。ねぇ、やっぱり引き返そっ!山姥切君の調子が悪いのも、そのお屋敷のせいかも知れないし!もしかしたら、警告なのかも!ねっ、だから、もう帰ろ!」
 初めに肝試しの話を持ち掛けたのは加藤である。しかし、その加藤が今は必死に引き返そうと主張している。矛盾してはいるが、それも致し方のない事だろう。そんな加藤の肩に、ぽんと齋藤が手を乗せる。
 「加藤さん、ごめんなさい。皆さんを連れて戻って下さらないかしら?私はそのお屋敷をこの目で見てみたいの。」
 「齋藤先輩…。」
 その様な二人の会話を聞きながら、山姥切は一人鳥居を潜った。鳥居の先には細い道が続いており、やはりその周りにも咲き乱れる彼岸花の姿があった。
 「山姥切!」
 一度は離れた鶴丸の手が、再び山姥切を掴む。鶴丸が至極心配した様な顔をするので、山姥切は何でもないと頭を振った。それでもなお鶴丸が手を離さないので、山姥切は軽く手を払い白い手から逃れる。
 「…さっきみたいな事になるのは、昔からだ。今更、気にする事でもない。」
 幼い頃から山姥切は幾度となく奇妙な経験をしてきた。金縛りも酷い耳鳴りも、そう珍しい事でもない。確かに先程の幻聴は相当な物であったが、ささいな物は日常茶飯事で今更気にする事でもない。
 「山姥切君て凄くミステリアスね。」
 山姥切の隣に立った齋藤が、覗き込む様にして笑った。
 「去年の学園祭から、貴方が注目されるのも分かるわ。いつもフードを被った無口なベーシスト。その顔を見た事がある人間は一握り。ミステリアスな男性に惹かれる女性も少なくないものよ。」
 齋藤が寄り添う様に隣に立つが、山姥切の目は彼女を捉えていなかった。ただ、目の前に続く隘路を睨む。
 「…所詮、鳥なき島の蝙蝠と同じ。写しには直ぐに飽きる。」
 「写し?貴方の言う事は不思議ね。でも、鳥が現れたとしても、優れた蝙蝠が消えてしまう事はないわ。それに、貴方は蝙蝠ではなく、綺麗な金糸雀ですもの。」
 ふふと笑う齋藤に、「綺麗とか言うな。」と山姥切が反論をしようとした時である。背後から声が響く。清水と井上の声だ。
 「くっそ!なんで、この空間は美形ばっかで、俺だけ一般人なんだよ!」
 「バッカじゃない?アンタなんか一般人以下でしょ。」
 情けない声を上げる清水に、すかさず井上が笑って言う。仲が良いのか悪いのか。
 「おいおい、そりゃねぇだろ。」
 「幼馴染のアタシが言うんだから、マジに決まってんでしょ。アンタ、バカ?」
 騒がしい二人を無視して、山姥切はゆっくりと歩みを進めた。両脇に咲き乱れる彼岸花の群れが、人魂の如く夜闇に浮かぶ。
 鬱蒼と生い茂る彼岸花の隘路をしばらく行けば、幽かに建物が見えてきた。さらに近付けば、その面妖な姿がしっかりと目に映る。
 「なかなかに古い建造物の様だな。ふむ、明治ごろの物か。」
 古い建物を前に三日月が零した。三日月が言う様に、たしかにかなり古い建物だろう。木造建築の古民家は、瓦屋根に苔を被り壁には蔦を絡ませていた。そして、ここにも彼岸花が生い茂っている。 途端吐き気の様な物を感じ、山姥切は口許を手で覆った。
 「山姥切、大丈夫か?」
 鶴丸に尋ねられ、山姥切はこくり頷く。吐き気は直ぐに止んだが、背を流れる冷や汗はまだ治まらない。
 「ねぇ、やっぱり止めよ!」
 加藤が泣き言の様に言えば、井上と清水も顔を見合わせ頷く。三日月も「では、帰ろうか。」と答えるが、やはり一人だけそれを否定する者があった。
 「私は行きます。先生は皆さんを連れてお帰り下さい。」
 そう齋藤はやはり梃子でも動かなかった。三日月が止めるのもよそに、齋藤が玄関扉に手をかける。苔と蔦を絡めた木造の扉が、がらがらという音と共に開かれた。
 「…齋藤先輩。」
 加藤が困り果てた様に名を呼ぶ。普段は余裕のある笑みを浮かべている三日月も、どうしたものかと考えあぐねている様だった。そうした中で、白い手が山姥切の手を握った。山姥切が驚き手を引っ込めようとすると、耳元で鶴丸が囁く。
 「良いか。絶対に俺から離れるな。」
 小声ではあるが、それは有無を言わさぬ強い言葉であった。その言葉同様に、鶴丸の白い手は絶対に離すまいと言わんばかりに、強く山姥切の手を握っている。
 そうこうしている間に、話はどうやらまとまったらしい。
 「じゃあ、手分けして回ろっ。やっぱり長くいちゃダメだよ。」
 「そうね。長居は危険そうだわ。手分けして回りましょうか。じゃんけんで良いかしら?」
 齋藤の提案に同意し、皆が右手を差し出す。しかし、山姥切は鶴丸に手を握られている為、右手を出す事が出来ない。
 「山姥切は養護教諭の俺が預かろう。いつまた具合が悪くなるか分からん。」
 「ふむ、そうだな。その方が良さそうだ。皆、それで良いな?」
 鶴丸の意見に三日月の言葉が上乗せされれば、誰もそれに反対はしなかった。隠れて口先を尖らせるのは、山姥切だけだ。確かに少しばかり人より不思議な事に遭いやすいが、ここまで過保護にされる理由が分からなかったのだ。
 山姥切が見守る中、ささやかなじゃんけん大会は始まった。
 「なんだか、ガキの頃思い出すな。」
 「昔は近所の公園でおにごっことかよくしたよね。清水、あの頃から足は速いけどバカだったよね。」
 井上と清水が幼少期を懐かしむ様に笑う。「じゃんけんぽん」という掛け声を聞きながら、山姥切は己の幼少期を振り返ってみた。今下宿している街とは離れた片田舎の町で、三兄弟の末っ子として生まれた。男ばかりの兄弟で、この時期はよく野山を駆け回っていたものだ。その頃から既に不可思議な体験は幾度となくしてきた。薄気味悪い視線に追いかけられた時は、泣き声を上げて兄を呼んだものだった。そして、直ぐに駆けつけてくれた兄弟が、一喝すればその視線は逃げる様に消えて行く。それも幾度と山姥切が経験してきた事だ。その様な事もあり、山姥切の下宿しているアパートの壁には、兄弟が貼ってくれたお札がある。どの様なご利益がある物か山姥切はよく理解していないが、何かあれば家に逃げ帰れば良いのだ思っていた。しかし、ここには兄弟もいなければ、お札もない。
 「あたしは三日月先生と齋藤先輩と一緒だね。」
 加藤は勇気付けようとしてか、無邪気に笑った。しかし、その顔はやはりどこかぎこちない。
 「なんでよりにもよって、清水と二人なのよ。」
 「しかたねぇだろ。お前がおんなじのばっか出すからいけねぇんだよ。」
 「ふふっ、仲良しね。さぁ、中に入ってみましょ。外見より小さな建物かもしれないわ。」
 井上と清水が子供の様な口論を始めれば、齋藤が小さく笑い扉の方へと誘導する。齋藤を追う様にして加藤、どこか警戒する様な顔をした三日月、清水と井上が続く。山姥切は鶴丸に手を握られたまま、古民家の玄関を潜った。
 綺麗に整理された家具や雑貨。壁に掛かる赤いかざぐるまは、隙間風に煽られからから回り続けている。一見普通に見える土間だが、何かが異様だと山姥切は感じた。
 「あたしたちは、正面の廊下を行くね。」
 加藤が真っ直ぐに伸びた廊下を指差した。
 「じゃあ、アタシと清水は右の廊下に行くから。」
 井上がそう言った事により、山姥切と鶴丸が左の廊下へ行く事が決まった。加藤が鞄からペンライトを取り出すと、それを皆に手渡す。
 「変な事があったら、直ぐに戻って来てね。」
 加藤が顔を強張らせて強く言う。加藤もこの屋敷に相当嫌な物を感じているのだろ。この屋敷にどこか執着的な齋藤や、ある意味で楽し気な井上と清水については分からない。しかし、少なくとも三日月や鶴丸は何か察しているだろう事が、山姥切にも分かった。
 一回りしたらここへ戻ってこよう、と誰かが言って、三つの道へと各々分かれて行った。誰が言ったかなど覚えていない。それはこの屋敷に心を奪われてしまった証拠ではないだろうか。

 ペンライトの僅かな灯りを頼りに、山姥切は鶴丸と二人廊下を進んだ。足が地を着く度に、幾十年も生きた木の廊下が軋む。

 「…お帰りなさい。」

 背後で声がしたように思えた山姥切は、慌てて振り返った。しかし、そこには位廊下が続いているだけで、何も存在しなかった。三方向に分かれたのだから、鶴丸以外に言葉を発する者がいるはずはない。その鶴丸も山姥切の手をしっかりと握り隣を歩いているのだから、背後からなどという事は有り得ないのだ。
 「山姥切?」
 「…なんでもない。それより、扉だ。」
 廊下に面して三つの障子戸が並んでいる。当然ながら無人の様で灯りが零れる障子は一つとてない。山姥切は手前の一つの戸に手をかけた。
 「おい、山姥切!」
 鶴丸は制止するが、山姥切は躊躇わず戸を開けようとした。しかし、戸は一寸も動きはしない。丸で固定されていかの様に、ぴくりとも動かないのだ。
 「どうした?」と鶴丸に尋ねられ、山姥切は首を横に振る。
 「全く開かない。」
 「古くなって、変形したのかも知れないな。先に行こう。次は俺が開ける。君は俺の後ろに続くんだ。良いな?」
 過保護な鶴丸の提案に、山姥切は顔を顰めながらも頷いた。そうして、次の戸へ鶴丸が手をかける。しかし。
 「この扉もか。全ての扉が固定されていて開かないのかも知れないな。」
 「住み手も居ないから、不動産会社が部外者の侵入を防ぐ為に固定した…という事は。」
 「家具や生活雑貨が残っている以上、それは考え難い。そもそも金具で止めているならば、動かした時に少しは音がしても良いはずだぜ?」
 山姥切は言葉を失った。そうだ。鶴丸の言う通り、土間は丸で突如として住人が消えたかの様に家具や生活雑貨が残されていた。それに改めて考えてみれば、土間は確かに土埃が目立ったが、今立っているこの廊下は、土足で歩くのも躊躇う程綺麗な物であった。
 「次が最後の扉か。この扉も動かなければ、大人しく撤退しよう。」
 「…分かった。」
 そう言って次の障子戸に手を伸ばす鶴丸に、山姥切はこくり頷いた。元々山姥切は乗り気ではなかったのだ。しかし、参加せざるを得なくなってしまった以上、役目は果たさなければならない。これで扉が空かなければ、それはそれでそう伝えれば良い。そう思っていたのだ。
 しかし、山姥切の予想と異なり、障子戸はすんなりと開かれた。
 畳張りの四畳半ほどの部屋には、白い着物の蝶が囚われていた。花嫁が着る様な物ではない。それは死装束だ。彼岸花に彩られる様にして、死装束の白い蝶が囚われていた。
 その部屋の柱にはいくつかの傷がある。それが意図的に付けられた物である事など一目瞭然だ。
 「子供が丈比べをした跡か。山姥切、ここは危険だ。直に引き返そう。」
 鶴丸の言葉が最後まで聞き取れぬ程の強い頭痛が、突如として山姥切を襲った。目の前が分からなくなるほどの眩暈と、激しい吐き気。止まる事を知らぬ冷や汗。立っている事もままならず、山姥切は床に膝をついた。

 山姥切が意識を取り戻した時には、既に神社の階段を下り切った所だった。鶴丸に背負われて、ここまで来たのだろう。余りにも情けない状況に、山姥切は穴があったら入りたい気持ちになった。
 「山姥切、具合はどうだ?」
 鶴丸にそう尋ねられ、山姥切はゆっくりとした動作で鶴丸の背から離れようとした。完全に頭痛と眩暈が治まった訳ではないが、先と比べれば随分と良い。それにこの状況のままでいる事が耐えられなかったのだ。
 「もう大丈夫だ。」
 山姥切がそう主張をすれば、鶴丸は困った様に笑いながらも山姥切を地面へと下ろした。地に足をついた事で、山姥切もほっと胸を撫で下ろす。その顔を加藤が覗き込んできた。
 「すっごくびっくりしたよ。山姥切君、鶴丸先生に抱えられて戻って来た時からずっと目を覚まさないんだもん。」
 今にも泣きだしそうな顔をする加藤に、山姥切は言葉を詰まらせフードの端を引っ張る。
 「悪い。迷惑をかけた。」
 「迷惑なんて、ひよこ君が無事で良かった!」
 加藤がわしゃわしゃと山姥切の頭を撫でる。やはりその仕草は、ペットを可愛がる飼い主のそれに近い。すると今度は、ぽんぽんと山姥切の頭を軽く叩く手があった。山姥切がしかめっ面で振り返れば、鶴丸が子供の様に悪戯っぽく笑った。
 「あら、もうこんな時間。そろそろお開きにしましょうか。」
 腕時計を確認した齋藤が告げる。山姥切もポケットからスマホを取り出すと、時間を確認する。齋藤が言う様に、流石にそろそろ家路についた方が良いだろう。
 「じゃ、みんな解散だね!また明日学校で会おっ!」
 「ふむ、では清水は井上を送っておくれ。俺が加藤を。鶴は齋藤を頼む。」
 そう指示を与える三日月に、齋藤は首を振った。長い黒髪がふわりふわりと踊る。
 「心配には及びませんわ。鶴丸先生は山姥切君を送ってあげて下さい。」
 ふふっと笑う齋藤は、山姥切の顔を覗き込むと、耳元で囁いた。
 「ぜひ今度は二人でお話をしてみたいわ。」
 吐息交じりの言葉が、山姥切の耳を撫でる。突然の事に驚き山姥切は咄嗟に離れるが、齋藤は何でもない事の様に上品に笑った。
 「それでは、また明日学校で。」
 ひらりスカートと長い黒髪が翻る。颯爽と去って行くその背を最早止める事は出来なかった。
 山姥切も言葉を失っていると、唐突に腕を強く引かれる。鶴丸だ。一瞬だが、山姥切は「国広」と呼ばれた様な気がして、小首を傾げた。
 相変わらず子供の様な口喧嘩を繰り広げている井上と清水は、周りの状況など見えていないだろう。加藤も山姥切と鶴丸の事など気付いておらず、「齋藤先輩、やっぱり素敵だなぁ。」と憧れの様な言葉を溢す。三日月だけが呆れた様に小さな笑みを浮かべていた。
 「では、帰るか。途中までは同じ方向であったな。」
 三日月の言葉でようやっと各々が足を動かし始める。山姥切はと言えば、手を離そうとしない鶴丸に困り果てていた。先程と比較し、むしろ強く握られている為、余計に逃れる事が出来ない。
 しばらく歩いた所で、山姥切のスマホが着信音を響かせる。学園祭も近いので、獅子王か大倶利伽羅であろうと山姥切は予想していた。しかし、ポケットから取り出したその画面には、発信者の名前はあらず。番号も全てゼロであった為、一層不気味であった。山姥切は不審に思いながらも、意を決してその電話に出た。

 「…奴らを許してはならない。」

 山姥切は思わずスマホを落とした。機械的な雑音が混じった、不気味な声だった。表すならば、壊れたラジオの様な声だ。
 「山姥切、どうした?大丈夫か?」
 鶴丸に尋ねられ、山姥切は誤魔化す様にこくりこくりと何度も頷く。と、その時、劈くような悲鳴が響いた。スマホの向こう側からだ。そして、その声の持ち主は。
 「齋藤先輩!?」
 真っ先の主に気付いた加藤が、顔色を変えてスマホを拾い上げる。
 「齋藤先輩!大丈夫ですか!?ねぇ、先輩!?」
 声を張り上げる加藤だが、その様子からして、齋藤からの返事が一切ないのだろう。三日月が加藤からスマホを受け取るが、無言で首を振った。どうやら、既に通話が切られてしまっているらしい。
 「齋藤の家へ向かうか。」
 「あ!それなら、あたし知ってるよ。先輩の通る道。前に抜け道があるって教えて貰ったんだ。」
 ぱっと立ち上がった加藤が先導する。清水と井上も悲鳴を聞いた以上このまま帰るのは気分が悪いと言い、結局皆で齋藤の家を目指す事になった。
 加藤の示す道は広い通りばかりで、危険な場所はなさそうであった。しかし、電話の向こうから聞こえたのは、確かに齋藤の悲鳴だった。
 「この道を抜けたら、先輩の家は直ぐそこだよ。」
 加藤が指さした先は、薄暗い細い路地であった。通りたいとは、あまり思えない道だ。
 「おいおい、こんな道通ってんのか?」
 清水が呆れた様な驚いた様な声を発する。それは誰しも同じだろう。山姥切もあえてこの薄暗い路地を通る事が理解出来なかった。
 「遠回りすれば広くて明るい道はあるよ。でも、この道が一番の近道だって、前に齋藤先輩が言ってた。」
 皆顔を見合わせるが、最も齋藤と親しいであろう加藤が言うのだから可能性は高いだろう。それに何者かに襲われたとなれば、広い通りよりこの薄暗い路地の方が納得できる。
 三日月と加藤を先頭にして、ぽっかりと口を開けた薄暗い路地に足を踏み込んだ。あの屋敷の廊下に比べれば可愛い物だが、それでも十分に不気味な通りだ。
 黒翼を広げた烏が、天へと舞い上がった。突然の来客に驚いたのだろう。嘴に加えていた物が、ぼとりと地面に落下した。
 「何か落ちたわね。」
 そう言って落ちた物を拾った井上だが、すぐさまそれを捨てる様にして投げ出した。声もなく肩を震わせる井上。「どうしたってんだ?」と歩み寄った清水も、それ以上何も言わなかった。否、言えなかったのだろう。
 天を泳ぐ雲がゆっくりと移動していくと、月明かりが薄暗い路地を静かに照らし出す。丸で舞台の照明が灯されたかの様に。
 「国広!見るな!」
 山姥切は鶴丸に強く抱き寄せられる。頭を掴まれ白い胸に引き寄せられるが、山姥切の目には既に焼き付いていた。
 響き渡る加藤の甲高い悲鳴。それに驚いた烏たちは、餌から飛び立っていく。
 肉片だ。大きな刃物で切られたであろう頭部が転がっている。その近くには、光を失った眼球。それは、一度は井上が拾い投げ捨てられた物だろう。烏により引きずり出された腸が広がり、叩き割られた頭蓋骨からは、脳が飛び出していた。風に吹かれる長い黒髪。赤一色に染まってしまった服は、間違いなく彼女の物であった。

 翌日、学校では全校集会が開かれた。内容は一つしかない。齋藤の死だ。しかし、詳しい内容が話される事はなかった、ただ、危険な人物が潜んでいるかも知れないので、明るい道を通り登下校をする様にとの事だった。
 「うわっ、山姥切。お前だいじょぶか?死にそうな顔してるぞ?」
 放課後。致し方なく部室に向かった山姥切に声をかけたのは、同じ部活の仲間であり、この部活に入らざるを得なくなった原因である獅子王であった。
 お気に入りだというギターを手にした獅子王は、山姥切の顔を覗き込む。正面から目が合った時、山姥切は今先程まで自分の意識が朧げであった事に気が付いた。
 「おい。昨日の今日だ。止めてやれ。お前も早く帰れ。」
 呆れた様に言う大倶利伽羅。大倶利伽羅の言う通り、今日は帰って寝てしまおうか。そう山姥切も考えた時である。
 断末魔の悲鳴を思わせるのは、パトカーのサイレン。それと同時に、山姥切のスマホが人の死を告げる。番号を見れば発信者は容易に分かる。そう、あの壊れたラジオだ。
 「山姥切!」
 廊下を走るなと言うべき職業の人が、音を立てて駆けて来る。山姥切は薄れていく意識の中、その人物を見つめた。「やっぱり、アンタは来てくれるんだな。」と、心中呟きながら。ぽちゃんと水に沈む様に、山姥切は意識を手放した。

***

 鶴丸はベッドの端に腰掛け、夕暮れの天を睨んだ。
 傾いた夕日が先決の様に、保健室を赤く赤く染め上げる。美しいと賞されるはずの紅色の空も、一層不愉快でしかたがない。そして、何より悲しく思えた。
 気を失った山姥切は、赤い色に染まったベッドで眠っている。ろくに眠っていなかったのだろう。見るからに顔色が悪い。
 「獅子王と大倶利伽羅は帰らせたぞ。」
 そう告げる三日月が加藤を伴い保健室へと入って来る。刀剣男士としての記憶を持つ三日月は、凄惨な光景だと思いながらもそれを受け入れる事が出来ただろう。しかし、ただの人間でしかない加藤は山姥切同様酷い顔をしていた。
 「井上さんと清水さんが殺されたって。本当なのかな。」
 譫言の様に零す加藤に、三日月は目を伏せる。鶴丸も返す言葉がなかった。
 「…井上と清水は死んだ。」
 唐突に聞こえた声。それはベッドからだった。意識を失っていた山姥切が、身体を引きずるようにして起き上がる。鶴丸は直ぐさま手を貸すと、そのまま腕で山姥切の背を支えた。やはり起きているのは辛いのだろう。山姥切は鶴丸の胸にその頭を預けた。
 「…俺のスマホにまた着信があって、二人の悲鳴を聞いた。履歴にも残らない着信だ。」
 「どうして、山姥切君なのかな?」と加藤が首を傾げれば、「…それは俺が聞きたい。」もフードの下の顔を歪めて言葉を吐き出した。精神的にかなり参っているであろう事は、一目瞭然である。山姥切は白いシーツを握り締めているが、その指先は僅かに震えていた。鶴丸は、今はただの人でしかない山姥切の身体を抱き寄せる。
 「ねぇ、もう一度あの屋敷に行ってみようよ!」
 提案したのは、加藤だった。その提案に三日月は難しい顔をする。鶴丸も心中頭を抱えた。確かに昨晩、鶴丸は三日月と話していたのだ。あの屋敷には何かあると、その原因を突き止めなければ、さらなる災厄が起こると。だから、鶴丸と三日月とで再びあの屋敷を調べようという話になっていたのだ。
 「いや、俺たち教師で調べるから、君たちはこれ以上あそこに近付かない方が良い。」
 「…俺も関係者だ。黙って見ていろと。」
 鶴丸の胸に頭を預けていた山姥切が、凛とした負けん気の強い目で鶴丸を見上げる。記憶がないというにも関わらず、この負けん気の強さは健在なので、鶴丸は参ったと心中頭を掻いた。可愛い年下の恋人は、本丸での内気さが嘘の様に、一度戦場に立てば相当な気の強さだ。刀剣男士としての戦場とは異なるが、今の山姥切にとってこの状況は戦場と変わらないのだろう。
 「全く君は相変わらずだな。なら、俺との約束だ。絶対に手を離さないでくれよ?」
 鶴丸の言葉に、山姥切は小首を傾げたものの「分かった。」と頷いた。

 太陽が地へと帰ってしまうまで、そう時間はないであろう。彼岸花に囲まれた古い屋敷を前に、鶴丸は溜息を吐いた。この屋敷に蔓延る魔物の正体を突き止めなければ、また犠牲者が出るだろう。鶴丸と三日月が防衛手段を持っている以上、次に狙われるのは加藤だろう。依代にされている山姥切は、どの様な扱いを受けるか分からない。もしかしたら、あちら側に連れ去られてしまうかも知れない。鶴丸は山姥切の手をしっかりと握り締めた。
 「行くか。」
 三日月が古い木製の戸を開ければ、僅かに埃が舞い上がる。土間の先には、先日同様に三方向に分かれた廊下が続いている。
 三日月を先頭にして、ペンライトを片手に屋敷に足を踏み入れた。まだ日は落ちていないが、屋敷の中は随分と薄暗い。ペンライトの灯りなしでは、進むのも困難だろう。
 どこからか物音がして、突如ペンライトの灯りが消えてしまう。
 「皆、離れるな!」
 暗闇の中で三日月の声が響く。誰かが鶴丸の服の裾を掴んだ。流石の山姥切でも驚いたのだろうと鶴丸が服の引かれた方を見れば、そこには酷く怯えた様子の加藤がいた。そうしている間に、ペンライトの灯りが戻って来る。
 「もう大丈夫だ。」
 鶴丸が声をかければ、目を瞑っていた加藤も安心した様に鶴丸の服から手を離した。とりあえず、加藤はもう大丈夫だろうと思った鶴丸は、可愛い恋人の無事を確認しようとした。しかし、しっかりと握り締めていたはずの手がそこにはない。
 「国広!?おい、国広!?」
 鶴丸が何度も名を呼んでみるが、山姥切の姿はどこにもない。
 「くっ、やられたか!」
 普段は穏やかな笑みを浮かべている三日月も酷い顔をしている。鶴丸は小さく舌打ちをした。
 「あの山姥切がパニックを起こすとは考えにくい。まさか先に山姥切を狙ってくるとは、予想外だったぜ。」
 「完全に油断しておったな。」
 ただの人でしかない加藤が、その場にいる事は分かっていた。しかし、鶴丸も三日月も無意識に言葉を発していたのだ。それ程までに心が乱れていたのだ。

***

 暗闇の中で山姥切は誰かに腕を掴まれた。かなり強い力で、引きずられる様に走らされた。言葉を発しようとしたが、その声はのどの奥で消えてしまう。
 やがて開けた場所に出た。窓から差し込む月光が、小さな部屋を照らしている。山姥切の腕を掴んでいたはずの人物は、気が付けばいなかった。山姥切一人そこに取り残されたのだ。
 月光で明るいはずだが、その部屋は随分と不気味に思えた。何かを吸って変色した縄と床。壁に立てかけられた刃物は、炯々と怪しくこちらを睨んでいる。刀とは異なるそれを見て、山姥切は直ぐに分かった。何かの血を吸ったのだろうと。

 「…大丈夫。××を奴らに殺させはしない。」

 雨が降っていた。
 夜が明けるには少しばかり早過ぎる。
 強く腕を引かれ、屋敷を逃げ出した。
 追いつかれては、いけない。
 奴らに屠り殺されてしまうから。
 泥濘に足を滑らせた。
 ぎらぎらと鈍く光る刃物が振り下ろされる。
 「××!」
 真っ赤な血飛沫が、空高く舞った。
 「××!?××!」
 奴らを許してはならない。

***

 ペンライトの灯りを頼りに、鶴丸は三日月と二人加藤を守る様にして進んだ。しばらく進んだ所で、一枚の紙きれを拾う。ペンライトで照らしてみれば、それがセピア色をした写真である事がわかった。その写真の中には幼い少年の姿があった。
 「可愛いね。小学生くらいかな?」
 覗き込んできた加藤が無邪気に笑う。この様な場所でなければ、どこかの老人が落としてしまったかと持ち主を探しもしただろう。しかし、場所が場所である。
 ぎしり。床が軋む音に、顔を上げる。暗闇から現れた姿に、加藤は顔を綻ばせた。
 「ひよこ君!良かった!心配してたんだよ!」
 今にも駆け出さん勢いの加藤を、三日月が制止する。鶴丸も求めていた恋人の姿であったが、その異変を直ぐに察知し、眉を顰めた。
 ゆらゆらと歩いてくる山姥切の目は、いつもの碧ではない。底なし沼の様に濁った眼は今何を捉えているのだろうか。手にした刃物が、がりがりと床を削っている。
 「逃げるぜ!」
 鶴丸の声を合図に、加藤の手を引いた三日月も走り出す。刃物を手にした山姥切は、構などなく適当に刃物を振り回しながら追いかけて来る。とても刀の付喪神であったとは思えない動きだ。
 ほうほうの体で三人は屋敷の外を目指す。三日月と加藤が玄関の戸を潜った所で、鶴丸は振り返った。
 何かに憑かれた山姥切は、鶴丸に追いつくと容赦なくその刃を振り下ろした。しかし、今は人の身であるとは言え、鶴丸は刀剣男士である。山姥切の腕を掴むと、軽く捻り上げ刃物を奪い取った。からん、からんと刃が床に転がる。
 「がら空きだぜ?」
 鶴丸は自分より一回り小さな体を抱き寄せると、唇を奪った。柔らかな唇を割り、舌を絡め取る。初めは抵抗をしていた山姥切だったが、間もなくぐったりと鶴丸の腕の中で崩れた。
 「鶴、大丈夫だったか?」
 鶴丸が山姥切を抱えて屋敷を出れば、そこには三日月と加藤の姿があった。
 「あぁ、この通りだ。少し乱暴な手だったが、これでこの子に憑いてる奴も少しは大人しくなるだろ。」
 腕の中で眠る山姥切の姿を今一度確認した鶴丸は、少しばかりの安堵の溜息を吐く。三日月程ではないが鶴丸の強い霊力が入り込めば、邪な者も身動きが取れないだろう。
 「…あの、鶴丸先生。鶴丸先生はひよこ君とどんな関係なんですか?」
 加藤は動揺している様であった。無理もない、あの様な光景を唐突に見せられたのだ。「さて、どう答えたもんか」と鶴丸が試案していると、くしゃりと服が引かれる。服を引いたのは眠っている山姥切であった。
 「国永…。」
 久方ぶりに聞く甘える様な寝言に、鶴丸の頬が一瞬にして熱を帯びる。これは余計に加藤に説明がし辛い状況になってしまった。鶴丸は言葉を詰まらせるが、三日月は他人事の様に嫋やかな笑みを浮かべている。すると、加藤はまたあの無邪気な笑みを咲かせた。
 「そっか、ひよこ君は鶴丸先生の事が大好きなんだ!ひよこ君の寝顔幸せそうなんだもん。先生がひよこ君を大切にしてる証拠だよね!ねっ?へへっ、こんなにひよこ君を大切にしてくれる人がいて、なんだか安心しちゃった。」
 どこか楽し気な加藤をよそに、鶴丸は熱を帯びた頬をそのままに歩み始めた。
 今これ以上の探索が不可能である事は、誰もが分かり切っている。絶対に一人にならないという事を約束して、神社の前で別れた。

 自身のベッドですやすやと眠る山姥切の金色の髪を、鶴丸はさらさらと梳く。久しぶりの感触だった。人として出会った時、やはり山姥切はすっぽりとフードを被っていた。獅子王や大倶利伽羅と親し気にしている所を幾度と見てきたが、鶴丸はあくまで大人である。彼らの様に山姥切に触れる事は容易ではなかった。
 「たとえ君に記憶がなくても、俺は君を愛している。」
 鶴丸はそっと眠る額に口付けを落とす。と、突然、鶴丸は腕を引かれ、ベッドの上に引きずり込まれる。
 「俺を女にしたアンタが、そこまで奥手だとは思わなかった。」
 鋭い碧の双眸が、正面から鶴丸を見つめている。凛と澄ました眼、それはあの刀剣男士山姥切国広の物だった。
 「君、もしかして、あの頃の記憶が戻ったのか?」
 「…あんな事されれば、嫌でも思い出す。」
 不貞腐れた様に逸らされた視線と尖る唇。これも鶴丸が愛してやまなかった山姥切の物だ。鶴丸は改めて山姥切に覆いかぶさると、顎を捕えて唇を合わせた。
 「すまん、すまん。何としても君を守りたかったんだ。それとも、君は俺とのキスは嫌いかい?」
 「…嫌いな訳、ないだろ。」
 鶴丸が尋ねれば、はにかむ様な山姥切の顔が見られる。緩く閉ざされた唇を割り、舌を絡め取る。無意識だろう甘える様に身体をくねらせる山姥切に、鶴丸はふっと笑みを浮かべ衣服を取り払ってゆく。まだ成長しきらぬ身体は、刀剣男士であった頃とさして変わらない。柔らかな肌に舌を這わせ、ゆっくりと蕾を開く。甘い吐息を吐く山姥切は、とろりと溶けた目で鶴丸に手を伸ばした。
 「…くになが。」
 「あぁ、おいで。国広。」
 鶴丸は山姥切を抱き寄せた。影は今一度一つとなる。響く音は水音と熱を帯びた吐息。紡がれたのは久方ぶりの愛の囀りだった。

 翌日、鶴丸は山姥切と共に学校に向かっていた。三日月と加藤と、学校で待ち合わせる事になっていたのだ。しかし、到着した学校の前には、酷い人だかりが出来ていた。パトカーと救急車の姿は、最悪の結果しか予想が出来ない。
 「おい、国広!」
 鶴丸が制止するのも聞かず、山姥切が人をかき分けて校舎へと駆けて行く。鶴丸も必死にその後を追った。山姥切と鶴丸では機動が違い過ぎる。鶴丸は刀剣男士であった頃の自身の能力を初めて恨んだ。
 階段を駆け上がった最上階、一番端の部屋。山姥切はその部屋の前で立ち尽くしていた。部屋の入口に貼られた黄色のテープ。丁度、担架で人が運ばれてきた所だった。
 「すまぬ。間に合わんかった。」
 担架で運ばれる三日月は悔しそうに顔を歪める。その身体は酷い傷を負っている様で、満身創痍でもなお必死に抗ったのだろう。
 「俺も駆けつけるのが遅くなって、すまん。」
 「鶴、しばらく席を外す。任せたぞ。」
 ふっと悲し気な笑みを浮かべる三日月に、鶴丸は「任せてくれ。」と頷いた。担架は鶴丸の横を抜け、校舎の外へと向かう。酷い傷は負っているが、中傷より少し傷が深い程度の様だ。三日月ならば大丈夫だろうと、鶴丸は三日月の事を信じた。それよりも心配な事が鶴丸にはあった。
 「国広。それ以上先には。」
 そう鶴丸が山姥切を引き留めようとしたが、時既に遅しであった。カバーで覆われてはいるが、広がった血だまりも汚れた壁や天井もそのままだ。
 山姥切はがくりとその場に膝をついた。両手で胸を押さえ、ひゅうひゅうと浅い息を繰り返す。
 「おい、国広!」
 鶴丸が駆け寄るが、山姥切は苦しそうに大粒の涙を溢すのみ。山姥切の異変に気付いた救急隊が、直ぐに対応してくれた事で大事には至らなかった。
 「過呼吸だ。ショックが大き過ぎたんだろう。貴様が居て何故あの様な事になった。」
 鶴丸が振り返ると、そこには一人の男が立っていた。見覚えのある男だ。
 「長谷部。君がどうしてここにいるんだ?」
 へし切長谷部。彼もまたかつて共に戦った刀剣男士だった。
 「今は刑事だ。ついてこい。」
 ふんと鼻を鳴らす長谷部。幾分落ち着いた山姥切を支えながら、鶴丸は長谷部の後を追った。

 鶴丸が通されたのは、黒い革張りのソファが置かれた部屋であった。鶴丸に寄りかかる様に腰掛ける山姥切は、俯いたまま口を一文字に結んでいる。鶴丸はその身体を抱き寄せると、「大丈夫だ。」と繰り返した。
 間もなく扉が開かれると、また予想外の人物が現れた。眼帯で片目を覆う男、この男を鶴丸は知っている。
 「鶴さんと国広くん!?」
 目を丸くする燭台切。その背中を押す様にして、長谷部も部屋へと入って来る。
 「そうだ。今回の事件の重要参考人だ。貴様ら知っている事を全て話せ。」
 気迫満点に上から話す長谷部に、燭台切は苦笑いで誤魔化す。
 「長谷部君、それだと取り調べみたいだよ。鶴さん、知ってる事があれば教えてくれないかな?どんな些細な事でも良いんだ。」
 「知っている事といえば、全てなんだが。根源が分からん。さて、どこから話すか。」
 鶴丸と三日月は、あの屋敷が原因である事は既に知っている。しかし、あの屋敷の何がそうさせているのかが分からなかった。故にどこから話すべきかと悩んでいる間であった。
 「…俺が…俺が、殺したんだ。きっと…。」
 唐突に山姥切がぽつりぽつりと零す。フードを深く被り服の裾をぎゅっと握り締める様は、丸で泣いているかの様だった。
 「国広。君は殺せない。齋藤が殺された時、君は俺たちと一緒にいた。井上と清水の時も、獅子王や伽羅坊といた。そして、加藤の時は俺といた。君が殺せるはずがない。それに君はそんな事が出来る男じゃあない。そうだろ?」
 鶴丸は一層山姥切の身体を引き寄せると、フードを被る頭に己の白い頭をこつりと合わせた。
 「国広くん…。」
 「光坊もそう心配するな。少しばかり変な屋敷を見付けてな。その屋敷の主がどうやら侵入者に罰を与えたいらしい。俺と三日月で根源を突き止めようとしたんだが、なかなかに手強い相手でな。」
 「ふん、職務怠慢だな。おい、案内しろ。」
 一度も椅子に腰掛ける事なく、出口へと向かう長谷部。生真面目過ぎるストイックさは健在の様である。燭台切は困った様に笑うが、まんざらでもない様だ。
 鶴丸は山姥切を支えながら立ち上がろうとするが、山姥切は未だ自暴自棄になっている様で動いてはくれない。ここで甘やかしたいのは山々であるが、それではいつまでも山姥切は苦しいままだ。ふと鶴丸はある事を閃いた。
 「国広。」
 一つ名を呼んでその幼い唇を奪った。唇を割り開こうとすれば、流石の山姥切も慌てて鶴丸から離れた。頬が真っ赤に染まっている。
 「アンタ!ここをどこだと思ってるんだ!」
 「君に憑いている悪い物が、また悪さをしているんじゃないかと思ってな。どうやら今回はかなり悪さをしているみたいだな。仕方ない、ここで俺の霊力を君に注ぐしかないか。」
 「やめろ!助平爺!」
 強く鶴丸の身体を押しのけると、山姥切は間を抜けて燭台切の方へと逃げて行く。いつもの調子に戻った山姥切に、鶴丸はからからと笑った。当然ながら燭台切は「鶴さん。」と呆れた声を漏らしていたが致し方ない。

 神社の石段を上がり、苔を纏う鳥居を潜り、彼岸花の隘路を抜け、あの屋敷へ。
 「ここが貴様らが入ったという屋敷か。」
 長谷部が複雑な表情で屋敷を見上げる。太陽の光を浴びた屋敷は、薄汚れた廃墟の様にしか思えないだろう。燭台切も小首を傾げるばかりだ。
 がらりと草臥れた玄関が、長谷部によって開かれる。途端、砂埃が舞い上がった。それは先日も同じ光景であった。だが、そこに広がっていた景色に、鶴丸は眉を寄せた。
 「鶴さん?」
 「この間までと違うな。一晩で家財道具が消えるなんて事、信じられるか?百歩譲って、夜盗や野犬が持って行ったとしよう。それでも建物の構造が変わるなんて、ただの驚きで済まされん。」
 扉を開けたそこには土間があった。しかし、先日まであった家具や生活雑貨がごっそりと姿を消しているのだ。さらには三方向に分かれていた廊下もなく。今は真っ直ぐに廊下が一本伸びているだけである。
 「やはり物の怪の類か。後の書類が厄介な事件だ。」
 眉間に皺を寄せながらも、長谷部は真っ直ぐに伸びた廊下へと向かう。その背中を燭台切が追いかける。鶴丸も山姥切と共に後に続いた。今ここにいるのは刀剣男士である。三日月にあれだけの傷を負わせた化け物とは言え、四人がかりで挑めば十分に勝ち目はあるだろう。
 少しばかり歩いた所で廊下は終わっていた。廊下の先には一つの扉。この扉も酷く草臥れて朽ちている。
 先頭の長谷部が扉を開ければ、まばゆい光が差し込んだ。そう、扉の先は外へと続いていた。中庭なのだろうか。枯れた池と転がる石灯篭。彼岸花に守られる様にして小さな庵が建っていた。
 「あれが元凶か。」
 「そうみたいだね。それにしても、不思議なくらい静かな場所だね。」
 庵を目標に定めながらも、燭台切が広がる光景について述べた。燭台切が言う通り、亡霊が棲んでいる地とは思えぬほど、大層静かな墓場だった。
 庵は三畳もないだろう小さな建物だ。その扉を長谷部が開く。この扉もはやり朽ちており、がらがらと音をさせて開かれた。
 畳張りの小さな庵の隅には小さな卓が置かれていた。その上には、本の様な物が開かれたままになっている。否、風でページがめくれてしまっただけなのかも知れないが。
 「手書きの文字か。」
 長谷部がめくる本を、鶴丸と燭台切が覗き込む。手書きの文字は決して丁寧とは言えないが、若々しさの様な物があった。

 今は昔、この辺りには小さな村が在ったという。
 肥えた土地ではなかったので、非常食として彼岸花を植えたそうだ。しかし、誤って口にした彼岸花の毒で、命を落とした者も少なくなかった。
 村人は人を屠る事にした。初めは死人を、次は働けぬ者を。だが、村人たちの飢えは満たされなかった。村人たちは次々と同じ村の者を屠り殺した。
 ××はそれに真っ向から反対をした。人の生は人の死の上に有るとは言え、人として許されぬ行為ではないかと問うたのだ。すると人々の怒りの矛先は、飢えではなく××へと向かった。しかし、人々が贄としたのは××ではなく、彼の内気な弟であった。××はその事に憤怒した。
 ××は弟を連れて、村を逃げ出す事にした。

 そこで本は終わっていた。長谷部の眉間に寄せられる皺がさらに増し、燭台切もただただ首を傾げる。これだけを読み取れば、今回の事件は××が原因だろうと思われる。しかし、どこか腑に落ちないのだ。逃げたのならば、なぜ悪霊としてこの地に残っているのかも疑問である。
 「…その晩は、酷い雨が降っていた。」
 静か語る声に、鶴丸は驚き振り返る。虚ろな目をした山姥切であった。
 「酷い酷い雨が降っていた。泥に足を滑らせて、転んだ。転んだ俺をかばって、兄さんが殺された。」
 ぽつり、ぽつりと零れた涙が、古い畳の床を濡らす。山姥切は幼子の様に両目を擦り、声を上げて泣いた。「兄さん、一人にしないで」と泣く声が痛々しい。涙を流す幼子を、山姥切ごと鶴丸は抱き締めた。
 「そうか、そうか。兄さんとはぐれてしまったか。よし、俺たちが探してやろう。」
 鶴丸が山姥切の頭を撫でれば、山姥切はすんすんと鼻を啜る。その様子に場違いにも、鶴丸は本丸での事を思い出す。時折、情緒不安定に泣き出す山姥切を一晩中あやしてやった事もあったなと。
 「おい、貴様。安請け合いするのは良いが、何か考えはあるのか。」
 頭を抱える長谷部。長谷部の言う通り、鶴丸に良い考えがあったかと言えば、丸で何も思い当たらない。しかし、この子供を兄に合わせる事で今回の事件は解決する、そう予感したのだ。
 「鶴さん、長谷部くん!これ!」
 唐突に燭台切が声を上げる。その手にはセピア色の紙切れが握られていた。その紙切れに鶴丸は見覚えがあった。
 「今の本に挟まってたんだ。何かのヒントにならないかな?」
 「でかしたぜ、光坊!ヒントどころか、それが答えだ。」
 鶴丸はポケットにしまっていたセピア色の写真を取り出した。それを見せる事で、燭台切も長谷部も気が付いた様だ。燭台切に手渡された半分の写真を、鶴丸は自分の手にしていた物と合わせて、山姥切の手に握らせた。
 「ほら、君の兄さんだ。」
 鶴丸が笑って見せれば、ぽろぽろと涙を流していた山姥切が、ぱっと無邪気な笑顔を咲かせた。「やっと会えた。」という言葉と共に、山姥切の中から白い影が抜けていく。白い影は幼い少年であった。するとどうした事だろう、庵の外から一人の少年がやってきた。彼によく似た少年だ。どうやら彼の兄らしい。幼い弟の手を引くと、二人仲良くこちらへ笑顔を向けた。

 「ありがとう。」

 音ない言葉と共に、少年たちはすっと霧が晴れるが如く消えて行く。
 鶴丸は今一度腕の中にある山姥切を見つめた。意識を失っていた山姥切であったが、数度のまばたきの後ゆっくりと瞼を開けた。
 「終わったぜ。帰るか?」
 こくりフードを被った頭が頷くが、どうやらまだ本調子ではないらしい。鶴丸はその身体を抱き上げ、庵を出た。長谷部と燭台切もそれに続く。と、長谷部が声を上げる。
 「おい、これは一体!?」
 先程まであった庵も、古く不気味な屋敷も、埋め尽くしていた彼岸花の群れも、何一つない。代わりに花を掠めたのは、甘く芳しい金木犀の香り。神社の裏山は金色に光る金木犀で満開だった。

***

 数日後、学園祭は去年と同じ様に盛大に行われた。流石天下五剣クオリティという事だろうか、三日月の傷は無事に完治し、職務に復帰している。
 この日の為に特別に作られたステージに、躊躇いながらも仲間に背を押されて山姥切は上がる。マイクを手にちらりと横目で見る獅子王に、山姥切も目で合図を返した。
 獅子王がにっと笑ってマイクを握り直す。
 「この曲を、この地で失われた幾つもの命に捧げます。って事で、聴いてくれよ!」
 爽やかな秋風を呼ぶかの様な獅子王の声。大倶利伽羅のギターの音が響き渡る。フードを深く被った山姥切は、最前列から時折アイコンタクトを送って来る年上の恋人に戸惑いながも、仲間の足を引っ張るまいと一人奮闘した。