閉花羞月

似非歴史中華パロです。
戦場で国広に一目惚れしたつるさんと、身内のつるさんを悪い虫から守ろうと思ったら予想外に国広が良い子でうっかり情を抱いてしまう三日月爺様による攻防戦です。



 青は茂り、空は澄み。笑みを携え行列は行く。凱旋には、良い日和であろう。客将である国広は、最後尾で手綱を握る。穏やかな気候に、愛馬も頗る調子が良い様だ。
 「このまま腰を据える場所が見付かれば良いのだけどね。」、そう溢したのは同郷の友である歌仙兼定である。また、これに対し「良さそうな国だけど。でもさぁ。」と口先を尖らせる加州清光もまた同郷の友である。
 志を共にし、故郷を離れ、義勇軍を募ったのは、世が乱れて間もない頃だ。世を変える事など出来ぬが、少しでも救われる命があるのならば、その為に共に戦い共に死のうと誓った。国広は自身の出生に負い目があった故、己の命一つで救われる物があるとするならば、安い買い物であると常々思っている。無論、その様な事を口にすれば、加州が声を上げて泣き、歌仙には至極叱られる事を分かっているので、国広は二度と言葉にはしないと決めていた。
 さて、その加州が先程から口先を尖らせているのには、理由がある。
 「国広!」
 そう歌う様に国広の名を呼び、態々列を外れて最後尾へとやって来た者があった。白馬に跨り、白い着物を靡かせる男。それは国広達を受け入れた国の軍師である。男の名は、鶴丸国永。儚げな容姿故、白い芙蓉の花に喩えられる事もあると言う。然し乍、花と呼べるのはその容姿のみ。口を開けば、随分と陽気な男であった。
 「ねぇ、なんで国広にべったりな訳。一度助けた位で異常じゃない。」
 小声で悪態を吐く加州に、歌仙が口許に人差し指を添えて苦笑する。鶴丸との距離はまだ十二分にある為加州の言葉が聞こえる事などないが、それでも容易に口にすべきではない。尤も、加州は聞こえても良いという様な様子であるが。
 国広は頭から深く被った布の端を引き、さらに顔を隠す。丁度口許のみを残す程度には、深く深く被り直した。
 「国広。そんなに深く被って、前が見難くないかい?」
 白い着物をひらひらと躍らせた鶴丸は、馬首を並べて国広に問い掛ける。然し、国広は鶴丸の方に顔を向ける事なく。
 「これで十分に見えている。気遣いは結構だ。」
 相手は仕えるべき主を持つ者であり、更には主から一目も二目も置かれる軍師殿である。話によれば、彼は彼の主君とは血縁にあるとも。本来ならば敬意を持って接するべき相手である。然し乍、国広はこの気さくに振る舞う男が心底苦手であった。疎まれて石を投げられる事は有れど、兄弟と生き別れてからは親しみを持って接する者など幼馴染みである加州と歌仙しか居なかった。否、人買いが無遠慮に接して来る事はあったが。そうして生きてきた国広にとって、この鶴丸という男は未知数の存在であり、ある種の天敵でしか有り得ないのだ。
 「鶴丸殿。それ位で許してやっては頂けませんか。」
 そう国広に助け舟を出したのは、歌仙であった。歌仙は三人の中では最も文化人であり、それなりの教養もある。故、表立って話をするのは歌仙と決まっていた。今回、この軍に客将として受け入れられたのも、歌仙の力あっての物だ。無論、加州も話は巧い。歌仙の様な知識人ではないが、加州は愛嬌を持っている。国広はと言えば、そのどちらも持たず。戦う事しか取柄が無いと、国広は自身を評価していた。だから、今も歌仙に助けを求め、黙する事しか出来ないのである。全く以て情けない話だと、国広は心中自嘲した。
 俯く国広の手を、幾分華奢な指先が突く。手綱を握る手に触れたのは、いつの間にか空気の様にするりと馬を並べた加州の指だった。鶴丸の視線が話している歌仙に向いている事は既に確認済みの様で、加州はこちらを向く様にと国広に合図を送っているのだ。国広は指先で僅かに布を持ち上げる。すると、加州は音をさせずに告げた。
 「俺たちがお前を守るから。安心しろよ。」、そう悪戯っぽく加州は笑った。だから、国広もそれに倣い、「ありがとう。」と口許だけで返事を返す。こうして二人の幼馴染みに救われる度に、自身を卑下してしまう国広であったが、二人の好意は素直に嬉しく思っていた。だから、せめて何かで返す事が出来ないか、とは国広の常の課題であった。
 そうしている間に、歌仙が上手く話を付けてくれたのだろう。鶴丸は「じゃあ、またな。」とひらり手を振り、馬の足を速めれば、あっという間に行列の先頭へと向かって走り去っていった。
 「まったく、君も厄介な人に好かれたね。」、とは呆れ返った歌仙の言葉である。

 国広が鶴丸という男と関わる事となったのは、或戦場での出来事が切欠であった。
 雲一つない快晴の戦場であった。緑の山に囲まれたそこで、二国が睨み合っている。客将として迎え入れられた国広達義勇軍は歌仙を総隊長にし、遊撃部隊として控えていた。最前線では正規の部隊が攻防を繰り広げている。
 白い軍師が告げた策はこうであった。囮部隊は正面から敵を捉え前線の防衛を行い、その間に奇襲部隊が山道を抜け、前後で挟撃を仕掛ける。
 実に単純な物であるが、こうして使い古された策を今さら用いる事も奇策の一つなのだろう。鶴丸と言えば、その道の者ならば知らない者はいないであろう程に有名な戦略家であった。奇策を好み、誰もが予想していなかったであろう方法で勝利を重ねてきた、まさに天才なのだ。その鶴丸が今さらこうも単純な策を用いるなど、誰も思うまい。然し乍、相手が知に劣る者であったならば、どうだろうか。
 「歌仙。」
 国広は離れた山の様子を見て、歌仙の名を呼ぶ。歌仙も国広の言わんとしている事に気付いているのだろう。
 「国広。君に任せても良いかい?」と尋ねられれば、国広は「分かった。」と応えた。
 直ぐに愛馬に跨がると、数少ない数名の騎兵を率いて馬を駆る。間も無く、先の青空が偽りであったかの様に影を孕む。晴天の霹靂とはこの事か。

***

 青くどこまでも澄んでいた空は、瞬く間に姿を消した。篠突雨が地面を叩き、流れた血を洗う。
 鶴丸の率いる部隊は不意打ちを受け、相応の損害を出していた。否、予想内の不意打ちであった。そもそも鶴丸の部隊は真の奇襲部隊を隠す為の囮であった。だから、刃を抜くであろう事は当初の予定通りなのである。ただ、敵がここにこれ程の兵を割いていた事が不意打ちであったのだ。
 然し、仮にこの部隊が破れたとて、鶴丸には勝利出来る確信があった。今、鶴丸が居る山道は比較的なだらかで進軍もしやすい山だ。だが、向かいの山は傾斜が激しく進む事は容易ではない。鶴丸はこの峨峨とした山へ今剣の部隊を向かわせたのだ。容姿は幼いが、彼の率いる部隊程身軽に戦場を飛ぶ部隊はあるまい。時機に今剣の部隊が背後からの奇襲を成功させ、自軍は勝利を得るだろう。その時、そこに鶴丸の姿が有るか亡いかなど問わず。
 どれ程斬り倒したかなど、とうに忘れていた。鶴丸はそれでも紅く染まる手から刃を離す事はなかった。戦場に身を置く以上、死は有り得るだろう。然し、そう容易く死んでは面白くない、逝くのであればそれなりの驚きを残して去ろう、発つ鳥は跡を遺すべきだと、鶴丸は常々思っていた。
 雨に混ざり滲む世界の中、鶴丸は声を聞いた。聞き覚えのない声であるが、それはどうやら援軍の様であった。声のする方を向けば、布を被った将が数騎の騎兵を従えてこちらへ駆けてくるではないか。
 布を纏う将は手綱から手を離すと、背に負っていた筒から矢を取り、躊躇う事なくそれを放つ。放たれた矢は隼に姿を変えるが如く飛翔し、獲物を捕らえた。鶴丸はその様子に息を飲んだ。鶴丸の仕える国には多くの猛将が居るが、この将はそれらとはまた異なる。
 「掴まれ!」、そう張り上げられた声に鶴丸は腕を引かれると、駆ける馬上へと掬い上げられた。
 鶴丸の手を取ったのは、布を纏う将であった。丁度その腕に抱かれる様にして馬に飛び乗る形となった鶴丸は、そこで予想外の物を見付ける。
 「こいつは驚いた。」
 それは思わず口から溢れた言葉であった。そう、鶴丸は驚いたのだ。意図せず言葉が出てしまう程に。
 鶴丸は心底思った。鶴丸が若い娘であったならば、頬を染めはにかみ笑みを浮かべたであろうと。鶴丸は白い芙蓉の花に喩えられる事も多く、巷では絶世の美貌ともよく言われていた。だが、鶴丸は男である。慕情を抱く事など有り得ない。然し乍、布の下にあった姿には息を飲んだ。
 そうしている間に、馬はその速さを緩める事なく旋回し、先の戦場に背を向ける。追い討ちをかけられぬ様にと、彼の従えた騎兵が追っ手を阻む。
 「直ぐに戻る。」、そう布の将は言い残し、鶴丸を抱いた儘戦場を離脱した。
 暫く駆ければ、自軍の将と義勇軍であろう部隊が迎えに来ていた。鶴丸はその将へと引き渡されるが、布の将は先に言い残していた通り馬首を翻し、義勇軍と共に戦場へと戻っていった。

 その戦は鶴丸達が勝利を得る事が出来た。
 損害は少なくはないが、戦場故失わずして得る事は出来ない。だから、亡くす者を少しでも減らす為に、軍師は知恵を絞るのだ。鶴丸は同じ過ちを起こさぬ為にと、先の戦において不可解な点を洗い出そうとしていたが、思う様に捗らない。
 蝋に点けた火がゆらゆらと躍り、薄暗い天幕に朧気な幻を生み出す。影が人に見えるなどよく有る事だ。だが、鶴丸にはその影が或者に見えて仕方がないのだ。
 ?雛の羽根を集めたが如く輝く髪に、翡翠を嵌め込んだ様な双眸。帰陣した折りに、声を掛けて見れば、戦場での凛と澄ましたそれとはまた異なり。一文字に結んだ唇は初々しく稚い。
 結局、当初予定していた仕事が捗らぬ鶴丸は、自身の主君に文を認めた。客将として迎えた美丈夫とその親しき者達を、自国へ受け入れる事は出来ないかと。そう、出来るのならば、紅顔の将にもう少し許り寄ってみたかったのだ。
 日の出を待たずして伝令の者は陣を発った。鶴丸の弾む様な声音に何かを察したのかも知れない。鶴丸は、僅かに安堵の息を吐く。それから、次の戦に備え、改めて気を引き締めた。

 然し乍、交戦を繰り返す事もなく、両国は和平を結ぶ事となった。それは北方より粟田口が進軍を行った為である。
 粟田口は鶴丸の仕える三条とは友好国である。三条が送った伝令が、ようやっと届いたのであろう。西からは三条、北からは粟田口。こうなれば、東を海に面す敵国に、逃れられる場所は南しかない。然し、敵国は以前この南の国と仲違いを起こし、それ以来交流はないと聞く。結果、降伏までは至らなかったものの、和平を申し出たのであろう。
 こうして、鶴丸は僅か許りの平穏を得る事となった。ならば、行う事は一つしかない。
 「国広。」
 布を纏う若者の名を呼ぶが、彼はひらりひらりと逃げてしまう。鶴丸は若者に追い付こうと、その背を追いかけた。

***

 天に浮かぶ月は欠けることなく。将兵を労うかの様に一層美しく地上を照らした。
 勝利を謳う宴は大層華やかである。皆、酒を煽り、明るい声は絶える事がない。
 この国の主である三日月宗近は、一人宴の席を抜け出した。今宵の主役は将兵達なのだから、己が抜けた所で問題はないであろうとは、三日月の見解だ。
 月光に照らされる廻廊を行けば、三日月の探し物は直ぐに見付かった。すっぽりと身を隠す様に布を纏い、中庭で月下香の香りを楽しむ人影。布を被っている為その容姿は分からないが、鶴丸の文を信じるのであれば、玉の様に美しいのだろう。無論、三日月はその文を素直に信じてなどいなかった。
 三日月は細工師に作らせた仮面で目元を隠し、その人影に近付いた。
 「そなた、斯様な場所で何をしておる?」
 三日月の声に至極驚いた様子で布は振り替える。やはり深く被った布のせいで顔は分からない。然し、その姿はみすぼらしく、とても芙蓉の花と呼ばれる鶴丸が惚れ込む若者とは到底思えなかった。
 「曲者ならば、ここで斬らねばなるまい。」
 そう、鶴丸に妙な虫がついたならば、その花が枯れてしまわぬうちに殺してしまわなければならない。特別な感情を持ち合わせてはいないが、鶴丸は三日月の血縁者である。守りたいという贔屓はあるのだ。
 だが、若者はその様な三日月の心の内など知る由もなし。言葉の通りと受け止めたのであろう。
 「勝手に出歩いて、すまない。」、そう謝罪した若者は、自身は先の戦場で世話になった義勇軍の一人であり、賑やかな席は苦手故逃げ出して来たのだと話した。口達者とはとても言えぬ調子に、おやと三日月は心中小首を傾げた。あの鶴丸を拐かしたのだから、相当な手練れであると思っていたのだ。だが、この初々しさ冴えも演技かも知れぬ。だから、表面だけで判断すべきではない。三日月はそう考えた。
 「俺の名は、宗近。嘗てはそなたと同じ拾われの老将だ。どうだ、俺と二人で飲まぬか?俺も生憎賑やかな席は苦手でな。相手をしてくれる者を探しておった所なのだよ。」
 仮面で顔の半分を隠し、三日月は笑った。無論、先の話は大嘘である。三日月という名を明かさなかったのは、そちらの方が皆に知られているからだ。月を瞳に映やし、また月華の様に上品に微笑む美丈夫。人は皆、三日月をそう評した。故、月を用いた名を明かしたのでは、容易に正体を暴かれてしまうと思った為だ。
 名を伏せ、正体を隠し、三日月は静かに笑う。
 「どうだ?良い酒もある。この老い耄れの相手をしてはくれぬか?」
 そう三日月は再度若者を誘う。然し乍、若者も警戒している様で、素直に頷きはしない。否、どうしたものかと判断に悩んでいる様にも見えるが。
 「そなたも何か故あって、その様な格好をしているのだろう。ならば、俺たちは同じよ。」
 「同じ?」
 「うむ。俺は祖国から身を追われておる。故、顔を見せられぬのだ。身内殺しは重罪だ。この寂しい老将の酒の相手をしてくれぬか?」
 その言葉を聞いた若者は、途端様子を変える。遠慮気味ではあるが、「俺なんかで良ければ。」と消え入りそうな声で頷いたのだ。その様に、三日月はますます心中唸る。それは、想像をしていた者と大変かけ離れていたからである。
 三日月が先導をすれば、若者は素直についてきた。もし鶴の言う事が真実であれば、この若者はいつどこかへ売られてしまってもおかしくないのではないか、三日月はそう思い乍も唯々好々爺を演じ、若者を部屋へと導く。
 「ここが俺の部屋だ。老い耄れの独り暮らしは辛い故、宮中に控えておるのだよ。」
 そう言って三日月は若者を引いた椅子へと導いた。当然、そこは三日月の部屋ではない。花につく虫を殺す為に用意をしていた部屋であった。だが、適度に生活感を繕った部屋に、若者は素直に騙されているのだろう。だから、今この若者は三日月の勧めた椅子にちょこんと座っているのだろう。
 三日月は棚から一つの瓶と杯を二つ手にする。この芳しい香りをさせる酒は、三日月も大変気に入っていた。三日月は若者の正面に腰を下ろすと、杯に酒を注いだ。表へ出されれば、その酒はより一層芳しい香りを漂わせる。
 「良い香りであろう。」、そう三日月が杯の一つを若者へ差し出せば、若者は遠慮気味にそれを受け取り乍こくりと素直に頷いた。その様子に三日月は笑みを浮かべ、杯に口を付けた。この香りの良い酒は、それは甘く甘く甘美である。三日月がちらりと若者に目をやれば、少し躊躇う様子を見せ乍も三日月に倣う様に杯を傾けた。
 「どうだ?」とまた三日月が感想を求めれば、若者は「甘い。」と答えた。その口許は僅か乍緩んでいる様であった。中庭で初めて見た時の一文字に結ばれた口許とは大違いだ。ますますこの若者が分からなくなった三日月であるが、まずは様子を見る事に徹すると決めた。
 三日月は自身の杯に酒を注ぎ乍、若者の杯が空になると同じ様に注いでやった。
 「この酒は桂花陳酒と言うてな。桂花を漬けた酒だ。だから、良い香りがするのだよ。」
 杯を酒で満たし乍一つこの酒の話をすれば、若者は目を輝かせている様であった。無論、深く被った布のせいでその目を見る事は叶わぬのだが、「アンタ、物知りなんだな。」と言った声からそんな様を想像してしまう。
 それならばと三日月は、「こんな話を知っているか?」と少し許面白い話をしてやれば、若者は布で顔を隠し乍も時に感心した様に時に驚いた様に遠慮気味ではあるが素直に反応を示すのだ。不思議な若者だ、と三日月はまた心中首を傾げる。
 瓶の中身も残り僅かとなった頃、それまで三日月の話を聞く許であった若者が、自ら口を開いた。
 「…アンタが罪人にはとても思えない。」
 そう言われて、三日月は初めにこの若者に出会った時に己をそう紹介した事を改めて思い出した。勿論、正体に気付かれてしまう様な言動はなかった。どうやら、この若者は先程までの会話でそう三日月の人柄を判断したのだろう。
 この若者は自身の経歴に何か負い目があるだろう、だから過去を詮索する様な話を止めさせる事は容易であった。だが、あえて三日月はこの話を続けて見る事とした。当然、嘘八百の作り話であるが。
 「俺は病の弟を手にかけてしまったのだよ。医者も最早診れぬと言うてな。素直で良く出来た俺には勿体無い弟であったのだが。そなたと話しておると、弟が俺を許して帰って来てくれた様に思えるよ。」
 悲し気に笑みを浮かべ乍三日月が話してみれば、「アンタは悪くない!」と若者は強く言った。それは先程までの消え入りそうな声とは異なる。
 「アンタは病気で苦しむ弟を楽にしてやりたかったんだろ。だから、アンタは悪くない。」
 それは意思を持った強い言葉であった。然し、そう言い切った後にはやはり尻すぼみのか細い声で、「俺なんかが言っても何の意味もないだろうが。」と溢す。その言葉を聞き、色々思う所がある三日月であったが、今は壇上の役者故、役を演じ切らねばなるまいとそれに徹する。
 「そなたは優しいのだな。そなたも故あって斯様な格好をしておるのだろう。」
 三日月が尋ねると、若者は逡巡している様であった。相手の過去を知って、己の過去を明かさぬのは不平等ではないか、とでも思っているのだろう。鶴丸の文では到底若者の人柄を信じていなかった三日月であったが、こうして話をしてみれば若者の人柄が少し許分かった様な気がした。
 「よいよい。無理に話さぬで良いよ。そなたも辛い事があったのだろう。」
 酒の為か幽かに赤みを帯びた頬を撫でてやれば、その指先に雫が触れた。その事に若者も気付いたのだろう。慌てた様子で布の端を引き更に深くと顔を隠す。それを見て、三日月はふっと笑って、また頬を撫でてやった。
 「泣くと良い。今宵、涙が流れたとてそれは酒のせい。気にせず、たんとお泣き。」
 三日月の言葉に、若者の中でその感情を塞き止めていた関が開いてしまったのだろう。若者ははらはらと涙を溢した。三日月は若者の手を取り牀に導くと、己の隣に腰掛けさせた。それから、幼子にする様に撫で、胸を貸してやったのだ。
 一度栓が抜けてしまえば、抑える事が出来ぬのだろう。若者はそれから暫く涙を流し続けた。押し殺す様な涙声が安らかな寝息に変わるまで、三日月はそれに付き合う。否、寝息に変わるも三日月は若者の傍に在り続けた。それは布の下に隠されていた顔があまりに稚い物だったからだ。そう、それは酒を与えてしまった事に罪悪感を抱く程に。彼と同世代の者でも酒を口にする者は数多居るだろうが、この口下手な青年が酒宴に居る姿など想像出来なかった。そうだ、そもそも彼は賑やかな席が苦手だと逃げて来たのだから、丸きりその通りなのだろう。
 眠る子の髪を三日月は、優しく優しく撫でてやった。
 「ゆっくりお休み。恐ろしい夢は、俺が斬ってやろう。だから、今はゆっくりお休み。」
 三日月の声がこの眠る子にも聞こえたのだろうか、ぐっすりと眠る顔が僅かに綻んだ様に見えた。

 朝日も少し許顔を覗かせ始めた頃だろう。三日月は眠る子を起こさぬ様に静かに部屋を抜け出した。
 「三日月、どういうつもりだ?」
 待ち構えていた様に立っていたのは、白い芙蓉の花の様な男であった。然し、その顔は今は花というには些か刺々しい。
 「昨晩、君と国広の姿をこちらの方で見たという者が居た。君と直接顔を合わせたのは歌仙兼定だから、国広とは初対面だろう。」
 目に角を立てる芙蓉の花に、三日月は口許を隠し揶揄う様に笑って見せる。
 「なに、月も光を消してしまう様な愛らしい子が、一人寂しそうにしておったから、一夜を共に過ごしてやったに過ぎんよ。」
 「まさか、君!あの子を牀に引きずり込んだ訳じゃないだろうな!」
 荒げられた声に三日月はおやおやと笑う。常に冷静であるべき軍師がこうも感情を露わにするとは、余程あの子の事を気に入っているのだろう、そう三日月は直ぐに察した。だが、三日月も昨夜出会ったいじらしい子に少なからず情を抱いていた。だから、あえて含みの有る笑みを浮かべてしまうのだ。
 「どうだろうな。あの子はまだこの部屋で眠っておるから、起きたら尋ねてみれば良いのではないか?」
 「君は相変わらず性悪だ。」、そう溢して白い花が部屋へと消えて行くと、後には三日月だけが残された。
 静寂の中庭を眺め乍、三日月はふうと息を吐く。
 「花を枯らす虫を殺めようとしたが、その虫は無垢な胡蝶であった故、気が変わってしまった。と言う事か。俺もまだ若いな。」
 呟かれた三日月の言葉を聞いた者は誰もおらず。唯々、静かに朝日が昇ってゆく許であった。

***

 駒鳥が囀り、朝を告げる頃。
 国広は自身の髪に何かが触れる感触で目を覚ました。その触れ方は柔らかく、重い瞼を持ち上げるのも億劫になってしまう。もう少しこの儘眠っていたい、そんな願望を抱いてしまう程、その触れ方は柔らかかった。
 「もう少し眠るかい?」
 穏やかな笑みを含む様なこの声音を、国広は知っている。そうだ、先日より国広はこの声を聞いているのだ。何度も「国広。」と己の名を呼ぶ声を。その声の持ち主は誰だったか。微睡む思考で国広が思い出そうとした時、声の主はまた笑う。
 「どうせ昨夜の宴のせいで、皆眠っているさ。」
 歌う様な楽しげな声音。国広は朧気な意識の中で、記憶の中から声の主を見付け出した時、跳ねる様に飛び起きた。
 「アンタ!なんで、ここに!?」、そう言葉に出してしまう程に、国広は至極驚いた。
 そこに居たのは、先日より国広の事を追い掛け回しているあの白い花の様な軍師であった。然し、白い軍師は驚きもせず、「よっ、よく眠れたかい?」と笑う。
 国広は一瞬頭の中が真っ白になる。然し、直ぐに大切な物がない事に気付き、慌てて周りを見渡した。そうだ、あれが必要なのだ。国広にとってあれは何よりも頑丈な鎧なのだ。
 突然、何かが国広を背中から包み込む。それは無垢色の着物であった。
 「すまん、すまん。あれが君にとって大切な物だとは分かっていたんだが、あの儘にしておくのは、あれも少し可哀想だ。日暮れには乾くだろうから、今はこれで勘弁してくれ。」
 後ろから抱き締め乍告げる男を、国広は着物から視線だけ覗かせキッと睨む。この男は口ではこの様に述べているが、実際国広にとってあの薄っぺらい鎧がどれ程大切な物か分かってなどいないだろう。否、分かる筈がない。
 「そう睨まないでくれ。確り今の君を誰にも見られない様にする策は考えてあるんだ。これでも天下に名高い軍師様だ。安心してくれ。」
 白い男は大船に乗った気持ちで任せてくれと笑うが、国広はそれを信じる事など到底出来なかった。「信用出来ない。」ときっぱり国広が否定すれば、白い男は「君は相変わらず手強いな。」と苦笑した。
 「物は試しだ。騙されたと思って、俺について来てくれ。」
 国広を解放した白い男は、「おいで。」と言わん許に国広を誘う。然し、国広は逡巡する。この男を信用したくないという事もあったが、それともう一つ気掛かりな事があるのだ。
 「この部屋の主の事か?あいつは暫く帰って来ないと思うから、俺から文でも送っておくさ。」
 丸で国広の心を読んだかの様な言葉だ。その答えが欲しかった事は確かだが、答えの内容に落胆した。あれ程醜態を晒したのだから、気まずい気持ちはあった。元より隠している顔を更に伏せたいと思う程には情けない姿を晒した。然し、だからこそ、謝罪と礼を直接述べたかったのだ。
 「国広。ここにいても、上手く隠れた事にはならないぜ?」
 告げたのは白い男の笑い声だ。いつの間にか部屋の入口まで移動していた白い男が、また「おいで。」と手招きをする。国広は被った白い着物を更に深く被ると、意を決して立ち上がった。
 白い男の手招きに誘われる儘、国広は歩みを進める。だが、違和感を覚え上手く踏み込む事が出来ない。終にはふらりと視界が揺らいで、正面から倒れ掛けた。
 「大丈夫か!?」
 その声の主に国広は支えられ、転倒する事はなかった。国広が顔を上げれば、白い着物を纏う胸が、己を確りと抱き留めている。
 「すまん。いつもの布と違うだけで、そんなにも違う物なんだな。歩けるかい?」
 「少し躓いただけだ。問題ない。」、国広は顔を顰め白い着物を纏う体を押し返すが、無垢色の手は国広を放そうとはしない。そして、丸で子供に謎かけをするが如く笑うのだ。
 「君に選ばせてやろう。俺に手を引かれて自分の足で歩くのと、俺に抱えて運ばれるのどちらが良い?」
 揶揄う様な問い掛けに、国広は被った着物の下、口先を尖らせる。
 「アンタ、性格最悪だな。」
 「お褒めに与り光栄だ。でも、俺以上の性悪も居るぜ?君みたいな素直な良い子を騙そうとする怖い人食い虎が。」
 途端、被った着物をちょいと摘み上げられ、国広は琥珀と目が合った。国広はその琥珀を前に、眉間に皺を寄せる。
 「アンタみたいな奴が然う然う居て堪るか。」と国広が悪態を吐けば、琥珀の瞳は憤るでもなく困った様に笑った。「だから、君は危ないんだ。」、と。

 悪態を吐き乍も国広は結局、鶴丸という白い男には敵わないのだ。出された茶を前に、国広は隠れて溜め息を吐いた。
 身を隠せる場所として国広が連れて来られた場所は、鶴丸の屋敷であった。身の回りの事は自分ですると言っていた鶴丸の屋敷には、確かに人影が丸でない。だから、こうして中庭に面した部屋で腰掛けて居ても誰の目にも触れる事はないのだ。
 この屋敷の主は国広に茶を勧めると、「君に見せたい物がある。」と言って、屋敷の奥へと消えてしまった。だから、この目の届く空間に在るのは国広唯一人である。
 人の気配のないそこで、国広は丸で箱庭の中に一人閉じ込められてしまったかの様な錯覚冴え覚える。それと同時に、自分を閉じ込めたいと思う変わり者など居る筈もない、と心中自身を嘲った。捕虜として捕らえられたとしても何の価値も無いのだから、その場で首を刎ねられるだけだ。自分の存在などその程度でしかない。逝くのならば刃を握り締めた儘逝くのが本望だ。
 国広はぼんやりと茶杯に視線を落とす。
 すると、ひらり何処からか花弁が迷い込んだ。淡い色をした花弁は、茶杯の中でゆらゆら漂う。その様子に国広も僅かに顔を綻ばせると、今度は可愛らしい歌が聞こえてきた。歌の方に目を向ければ、そこには卓の上で羽を休める小鳥が一羽在った。
 「お前もこの屋敷に招かれたのか?」
 そう国広が指先で撫でてやれば、小鳥は心地良さそうに目を閉じた。小鳥は随分と人間に馴れている様で、国広が触れても逃げようとはしない。寧ろ、強請る様にふわふわとした体を指先に寄せている。
 国広はその愛くるしい小鳥を手の上に招くと、出来る限り優しく撫でてやった。国広がそうして貰った様に。ふっと風が通り抜ければ、それが代わりに国広の髪を優しく撫でた。
 「ここに居たのか。」
 聞こえた声に国広が顔をそちらに向ければ、小鳥は手の上から飛び立った。
 声の主は、この屋敷の主人である白い軍師鶴丸であった。その鶴丸の手には鳥籠が提げられている。
 「君にあの子を見せようと思ったんだが、なかなか籠に入ってくれなくてな。」
 「懐いてはくれているんだが、籠は好かんみたいでな。」と、鶴丸は笑い乍、国広の前に腰掛けた。卓の上に置かれた籠は、小さな小さな小鳥一羽には大き過ぎるが、それでもあの小鳥には窮屈だったのだろう。国広は卓の上に残された柔らかな羽根を指先で拾い上げた。
 「アンタが飼ってるのか?」
 国広が尋ねれば、鶴丸は「あぁ。」と笑って答えた。
 「親兄弟と逸れてしまったようでな。雛だったあの子を拾って育てたんだが。」
 「あの通りのお転婆具合だ。」と鶴丸は言うが、莞爾として笑む鶴丸のそれは愛する子を自慢する父親のそれに似ていた。尤も、幼くして親兄弟と生き別れた国広には、父親という生き物についてなど、曖昧な記憶の中にある己の父親の姿しか知らないのだが。それでも、あの小鳥がこの男に愛されている事はよく分かった。
 「アンタみたいな奴に拾われて、あの子は良かったな。」
 国広は指先で被った布を引き寄せると、目を隠した儘口許だけで笑ってみせた。そうだ、国広には国広を思ってくれる二人の幼馴染みが居るのだ。だから、今自分が僅かに感じた物は気の迷いなのだ、そう国広は一人納得する。
 「君は。」、そう鶴丸が言葉を発しかけた時、可愛らしい歌が国広の肩に舞い降りた。愛らしい子の帰還に、鶴丸の視線もそちらへ流れる。国広もそちらへ目をやると、柔らかな体を再び指で撫でてやった。
 「先日の戦、歌仙には空を飛ぶ鳥で伏兵を看破出来たと聞いたんだが、君は丸で鳥たちに直接聞いたみたいだな。」
 先日の戦とは、予想外に多い兵が伏されていたあの戦の事であろう。あの時、国広と歌仙が伏兵の多さに気付く事が出来たのは、空を飛ぶ鳥たちの様子がおかしかったからだ。仮に二つの山がそこにあったとしよう。片方の山には鳥たちが帰って行くのに対し、片方の山には丸で寄り付かない。そうなれば、大凡の仮説が成り立つ。尤も、元は歌仙が書物を読み、国広はそれを耳で聞き覚えたに過ぎないのだが。だから、国広は素直にそう告げた。
 「伏兵に気付いたのは歌仙だ。俺はたまたま駆け付けたに過ぎない。鳥に聞くなんて出来る訳がないだろ。」
 「そうかな。君ならば、鳥や花とも話が出来そうだ。国広、君が鳥や花に話すそれを俺にも聞かせてくれないか?」
 そう告げた鶴丸の目は、先程までのそれとは丸で異なる。琥珀の眼が真っ直ぐに国広を見詰めていた。その真剣な眼差しに、国広も一瞬呼吸をするのも忘れてしまう。
 「君の話を聞かせて欲しい。」
 そう再び告げられるが、国広は被った着物を更に深く被り、決して首を縦には振らなかった。

***

 連日の激務に、三日月は大層疲れていた。
 休戦協定が結ばれ、暫くは戦もないだろう。然し、戦はなくとも、国を治める三日月には、やらねばならぬ事が山程あるのだ。元より多忙であったが、最近ではろくに休む間もない。裏で鶴丸がそう仕向けている事など直ぐに見抜く事が出来たが、その鶴丸と直接話す間もないのだから、三日月は鬱憤が溜まっていた。無論、顔に出す事などないが。また、三日月には隠れた楽しみがあった為、幾分気も紛れたのだ。
 或る日、三日月は少し許の息抜きにと廻廊へと足を向けた。その時、その部屋の前を通り過ぎたのは、本当に偶然であった。無人の部屋の前に、ちょこんと控え目に置かれた小さな花。手に取ってみれば、それは端切れと枝で作られた可愛らしい花であった。誰かの忘れ物であろうか、そう考えた三日月はその花をそこへ戻し仕事へ戻った。
 明くる日、三日月はまたその部屋の前を通りかかる。すると、どうだろう。そこには更に一輪の花が増えていた。謙虚な花は決して目立つ事もせず、丸で一途に部屋の主を待っているかの様であった。三日月は、ふむと首を傾げた。
 更に明くる日、三日月はまたその部屋の前にやって来る。三日月の予想していた通り、そこにはまた一輪の花が増えていた。その花を見た三日月は、誰にも気付かれぬ様、顔を綻ばせた。この花を置いた子を思うと、笑みが零れてしまうのだ。無垢で健気な子だと。
 それから三日月は仕事の合間を見て、この花をこっそりと愛でるのが、密かな楽しみとなった。
 部屋の前に添えられた花も幾らか賑やかになった頃だろうか、三日月は今日も花を愛でる為、筆を置いた。常ならばまだ日も高い頃にそこへ行くのだが、今宵はなかなか仕事に区切りを付ける事が出来ず、この様な時間となってしまったのだ。天には弧を描く月が浮かび、宮中はひっそりと静まり返っていた。
 誰の姿もない廻廊を行き、目的の部屋へと近付いた時、一つの人影を見付ける。無人の部屋の前に膝を抱える様にして座るそれは、丸であの控え目な花が人の姿を得たかの様だ。否、それが花よりも愛らしくいじらしい事を三日月は知っている。
 懐に隠していた仮面で顔を覆い、三日月はその健気な人影に歩み寄った。
 「そなた、斯様な場所に居ては風邪を引いてしまうぞ。」
 三日月が声をかければ、伏せられていた顔がはっとした様に上を向く。布を深く被った子は至極驚いた様な仕草を見せたかと思うと、慌てて立ち上がり頭を下げた。「この間は、悪かった。」と。律儀な子に、また三日月は笑みを零す。
 「よいよい。して、そなた。俺の姿が見えぬ故、身を按じてくれたか?」、と三日月が尋ねてみれば、布を被った頭が小さく頷いた。
 「鶴丸に聞いた。暫く使いで出ていると。」
 鶴丸からそうこの子が聞かされたのはいつだろう。置かれた花とこの子の様子を見れば、それは一日二日の話ではないと、直ぐに分かる。帰還の名を持つその花は、薬にもなるとされる。この子は戻らぬ三日月を思い、あの花を一輪一輪丁寧に丁寧に拵えたのだろう。無事に帰って来られる様にと。そう思うと、三日月も一層この健気な子が愛おしく思えてくるのだ。
 「そうか、そうか。そなたには、随分心配をかけてしまったな。おいで。茶を煎れてやろう。」
 三日月が手を差し伸べれば、布を被った子は逡巡した様な様子を見せる。控え目で謙虚な子だから、この様な夜更けに訪ねて迷惑ではないだろうか、などと考えているのだろう。だから、三日月は仮面で目元を隠し乍も穏やかに穏やかに笑ってみせた。
 「この老い耄れは、そなたと居ると楽しいのだよ。どうか、今宵も老い耄れの相手をしてくれぬか?」
 三日月がそう小首を傾げて見せると、謙虚な子は「アンタの迷惑じゃなければ。」と応えた。消え入る様な言葉の最後は聞き取る事が出来なかったが、自分も三日月と同じ気持ちだと言ってくれていたならば、と三日月は思った。そう、その様な事を考えてしまう程、三日月の中でこの子の存在が大きくなっていたのだ。
 「おいで。」と三日月が改めて手を差し伸べれば、控え目で健気な子は少し躊躇い乍もその手を取る。余りにも遠慮気味に手を添えるので、三日月も思わず笑みが零れた。
 三日月は布を被った儘の子を部屋へと招き入れると、花茶を出してやった。ふらふらと茶の中で漂う菊花に、布で隠された眼がまた輝いている様に見える。
 「そなた、花茶は初めてか?」、と三日月が尋ねれば、やはり目の前の子は「あぁ。」と頷いた。それから布を引き更に顔を隠すと、「アンタに会うまで、戦う事位しか知らなかった。」と恥じる様に俯く。無事を願う花は友である歌仙に教えて貰って作ったのだと、なかなか思う様に作れず一輪を作るだけでも手間取って、日に一輪しか作れなかったのだと、そんな話を聞けば三日月もまた顔が綻んでしまう。
 「そうか。ならば、そなたにたんと面白い話を聞かせてやろう。」、と三日月が笑うと、布を被る子ははにかむ様にしてこくり頷いた。
 それから三日月は、再び迷い込んだ愛らしい胡蝶に、幼子に昔話を聞かせるが如く様々な話を聞かせてやった。三日月はこの子が先日月下香の花を愛でていたのを思い出し、特に花の話を聞かせてやった。牡丹に菊、桃に雛罌粟。布で顔を隠し乍もその子は、楽しそうに三日月の話を聞く。初めて会った時には一文字に結ばれていた口許も、あどけなさ残る姿その儘に今は緩められている。
 先日は押し殺された涙声からの夢路であったが、どうか今宵は健やかな眠りである事をと、船を漕ぎ始めた子を前に、三日月は願う。三日月が「そなたも疲れたであろう。そろそろお休み。」と牀へ導こうとするが、控え目な子は首を横に振った。
 「アンタにこれ以上迷惑をかけれない。」、そう言って立ち上がり会釈をすると、その子はひらり三日月の手から零れて行った。丸で救い上げたと思った花弁が、指先から抜け落ちて行くが如く。
 「待っておくれ。」
 立ち去る子を三日月が呼び止めると、その子は僅かに振り返る。
 「アンタは天の月と同じだ。」、と吐き出された幽かな声は三日月の物ではない。それから、同じ声で「朝になれば居なくなるんだろ。」と。分かっている、そう嘆く様な声音に、三日月の胸が締め付けられる。そうだ、三日月の正体を隠しているのは、仮面だけではない。闇を纏う夜だからこそ、隠す事が出来るのだ。
 「任務がある故昼は会えぬが、夜ならば。」
 「明日の夜も、その先も、そなたと過ごしたい。」、そう三日月が言葉を発しかけた時、その子は自身の唇に人差し指を添えた。それはその言葉を制する様な仕草であった。
 唇から指先が離されると、音を発せず、その子は告げる。
 ありがとう、さようなら、それが三日月の愛おしく思う子が残した最後の言葉であった。
 突然告げられた別れに、三日月は戸惑った。決して、あの子に嫌われる様な事はしていなかった筈だ。ならば、何故。三日月は自身の額に手を当て、頭を振る。その時、三日月はある事に気が付き、背中に冷たい汗が流れた。
 確かに仮面で顔を隠してはいる。だが、その格好はどうだろうか。今日は客人があった為、三日月も相応の着物を着ていた。そして、着替える間もなかったのだから、今もその格好の儘なのである。それに引き換え、三日月の愛でようとした子は相も変わらずみすぼらしい布を纏っていた。
 ふっと笑った拍子に、弧を描いた月から雨粒が落ちた。
 ぽつりぽつりと降り出した雨は、瞬く間に篠突雨に変わった。然し乍、それは三日月にとって幸いであった。轟く雷鳴と激しい雨音は、抑える事の出来ぬ声と涙を全て隠してくれた。そう、闇が月を隠してくれた様に。

 日が昇れば、昨晩の雷雨が偽りであったかの様に、晴れやかな青が天にはあった。幽かに残された物と言えば、中庭の花々に残された僅かな水滴だけであろう。
 国を治める主の顔に戻った三日月は、改めて歌仙兼定という客将と彼の友人を呼びだした。気後れする事なく胸を張る歌仙と、どこかそわそわした様子の加州。三日月の愛した子は躊躇い乍も深く被った布を除け、その顔を晒した。光の下で見る姿はより好ましかったが、それは三日月の愛した子とは丸で別人であった。縋る様ないじらしさもなければ、幼子の様な愛らしさもない。口を一文字に結び、全てを拒絶する様な目をした武人が一人居るだけであった。
 言葉を失っていた三日月だが、脇に控えていた側近に遠回しの催促をされれば、きりりと顔を引き締め直した。自身の役目を全うする為に。それから、この国の主君として告げた。
 「そなたらを我が国の将兵として迎え入れよう。」
 三日月がその言葉を発した時、幽かに翡翠が伏せられたのは気のせいであっただろうか。

***

 中庭の木々は爽やかな風に吹かれ、さわさわと音を奏でる。昨夜の雨が幻であったかの様な青い空に、鶴丸の心も踊る。否、鶴丸の心を躍らせたのは、空ではないだろう。丸で青い空を吹く風が運んできてくれたかの様なそれは、鶴丸が慕情を寄せる若者であった。
 「君は相変わらず、その子に好かれているな。」
 肩にちょこんと小鳥を乗せる若者国広は、鶴丸が愛して止まない子であった。警戒心が強く、なかなか鶴丸に近付く事を許してはくれない子。小鳥が君に会いたがっている、と言って幾度と誘い、やっとそれに頷いてくれる様になったのは、つい先日の事だ。そんな国広が自ら小鳥に会いたいと申し出たので、鶴丸は二つ返事でそれに応えた。鶴丸ではなく小鳥という事は少々不服であるが、それでも自ら鶴丸の屋敷を訪れてくれたのだから大きな進歩であろう。
 鶴丸の前に腰掛けて居る国広は、指先で小鳥を撫でる。深く被った布が邪魔で分かり辛いが、幾分口許が綻んでいるのが分かる。この子は人に対しては手負いの獣が如く強い警戒心を見せるが、花や草、鳥や馬、そう人以外の全てにはとても好意的だ。その好意は言葉を持たぬ者達にも分かるのだろう。
 「君もその子の事が好きか?」、と鶴丸が尋ねれば、国広は「あぁ。」と小さく頷いた。それから、国広はまた指先で小さな小鳥を撫でた。その仕草は一層優しく柔らかな物であったが、布の下から覗く口許はどこか憂いを帯びている。「お前は良い奴に拾われて良かったな。」、幼さの残る唇から零れた言葉は無意識だろう。
 「国広?」
 鶴丸が寄って顔を覗き込もうとすれば、国広はぎゅっと布を掴むと更に深く深く被りその顔を隠してしまう。それは宛ら涙を流さず泣いている様であった。
 「君、何かあったのか?」、と鶴丸が尋ねるも、「何もない。」と首を横に振る子。その姿があまりに痛々しく、鶴丸はその身体を抱き締めた。布を被る耳元に「俺には話してくれないのか?」と囁けば、嘲る様な笑い。被った衣の為、その目を見る事は叶わぬが、鶴丸は歪に歪んだ口許を見た。
 「戦う事しか取柄の無い馬鹿な子供を揶揄って、楽しいか?」
 そう告げられた言葉に、鶴丸もかっとなる。それでは丸で鶴丸が退屈凌ぎにこの子を弄んで居る様ではないかと。気が付けば、鶴丸は未だ成長しきらぬ身体を、無理矢理引き寄せると卓の上に押し付けていた。卓の上に上がり馬乗りになる鶴丸だが、国広は全く動じた様子を見せず。鶴丸がそっとその子の頭に被る衣を退かせば、翡翠は虚ろに揺らぐ。その双眸を前に、鶴丸は顔を顰めた。
 「国広。俺は君を驚かせたいとは思うが、揶揄うつもりは毛頭ない。」
 鶴丸は必死に弁解をするが、国広は顔を背ける許。そこで鶴丸は昨晩この子に何かあったのではないかと疑う。そう、この子に好奇心を持っているだろうあの男によって、この子が傷付けられたのではないかと。何があったのかは計り知れぬが、鶴丸はあの男と自分は違うと証明したかった。
 「俺はこの小鳥と同じ様に君を大切にしたい。」
 「俺はアンタの大切な小鳥とは違う。愛嬌もなければ、教養もない。」
 宛ら自分は丸で無価値な存在であると言う子に、鶴丸は頭を振った。そして、その足に手を添えそっと撫でて見せる。
 「君は純朴で無垢だ。君と会うのがもう少し早ければ、俺は君に木靴を履かせ、この屋敷から一歩も外には出さなかっただろう。」
 そう、成長期の足に木靴を履かせたならば、それはその成長を妨げるだろう。そして、発育を止められた足では歩く事も儘ならず、屋敷という箱庭だけがこの子の世界となるだろう。初めは戦場での凛と澄ましたその姿に惹かれた。しかし、今のこの子の様を見れば、それを失ってでも、誰にも傷付けられる事にない箱庭にそっとしまっておきたいと鶴丸は思った。
 「少し遅いかも知れないが、君はまだ成長するだろう。だから、今からでもまだ間に合う。俺はこの足に木靴を履かせたい。」
 鶴丸は国広の足に手を添えた儘、その顔を覗き込む。途端、稚さ残る口許がはんと笑う。
 唐突に差し出された刃に、鶴丸は目を丸くした。
 差し出された刃は、国広が帯刀していた物だ。国広はその刃を鶴丸に握らせると、挑む様に歪に笑う。
 「そんな甘ったるい事を言わずに、ならこの足を切り落とせば良い。」
 「そら、どうした。」と言わん許に握らされる刃に、鶴丸も戸惑いを隠せなかった。だが、その翡翠の奥に隠された涙を見た鶴丸は、その刃を受け取ると遠くへ放る。その様子に落胆する目の前の子を、「違う。」と言う様に鶴丸は強く抱き締めた。
 「俺は君を傷付けたくはない。だが、君の望む通りにしよう。」
 鶴丸は国広の体を片腕に抱いた儘、片方の手で足を撫でた。
 「この足に窮屈な木靴を履かせよう。それから、枷でこの屋敷に縛り付けよう。俺は絶対に君を騙しはしないし、裏切りもしない。」
 「約束する。」、鶴丸は震える耳元でそっと囁いた。

 大地も緋に染まる頃。忙しなく人が行き交う宮中を、鶴丸は踊る様な軽やかな足取りで行く。擦れ違う女官にひらひらと手を振って見せれば、彼女らは皆頬を染めた。それは鶴丸が芙蓉の花が如く美しい為だけではない。元来美しいとされる花が、花開く様を見せたならば、それを見た者は皆感嘆の声を上げるだろう。そう、今の鶴丸は、誰もがうっとりとする様な笑顔を携えていたのだ。
 「鶴。そなたは頗る機嫌が良い様だな。」
 呼び止められた声に、鶴丸はくるりと振り返る。そこには案の定、目に角を立てた月が佇んでいた。普段は柔和な笑みを浮かべ、決して憤りを悟らせぬ男。その様に誰もが天の月を思い浮かべた。然し、今はその男が苛立ちを隠せぬ表情で、そこに立っているのである。
 鶴丸は知っていた。この月の様な男がここまで感情を露にしている理由を。だからこそ、鶴丸は莞爾として笑む。
 「あぁ。先日、傷付いた小鳥を拾ってな。その子がとても愛らしいんだ。」
 「そなたが小鳥を飼っていた事は知っていたが。そこまで小鳥を好むとは。」
 鶴丸の言葉に、口角を上げる三日月だが、その目は決して笑ってはいない。寧ろ、その目だけで人の命を奪えそうな笑顔であった。その様に、鶴丸は憶する所か、高笑いするが如くからから笑う。
 「あの子が無垢で純朴な子だから余計に、愛おしいのさ。金の羽に碧の目をした可愛い子だ。花も恥じらう様な愛らしい子だが、誰かに酷い目に遭わされたみたいでな。鳥籠から出たくないみたいだ。」
 鶴丸は言い終えるか終えぬか分からぬ内に、背中に強い衝撃を受ける。否、それは正面から受けた衝撃であり、鶴丸は壁に背を打ち付けたに過ぎない。
 「貴様。」、そう奥歯を食い縛る様に吐き出された言葉。男は鶴丸を壁に押し付ける手を放そうとはしない。鶴丸はその手を掴むと、強く押し返す。
 「俺はあの子を騙しはしない。あの子の全てを正面から受け止めてやるつもりだ。君はどうだ?」
 揺らぐ月に、芙蓉の花は嘲う。
 鶴丸は未だ言葉を失う三日月をその儘に、帰るべき屋敷へと足の先を向けた。
 「今日の仕事は片付いてるんでね。あの子が待ってるから、帰らせて貰うぜ。安心してくれ、あの子は俺が守る。君は主君としての役目を全うしたら良いさ。」

***

 夜明けと共に降り出した雨は、しとしとと。まさに天が泣いている様であった。飾り格子の向こう側では、中庭が湿度を纏い雨に眠る。
 三日月はその雨の中に愛しい子が佇んでいる様な錯覚を起こした。
 別れを告げられた三日月は、自身でも驚く程に大層悲しんだ。これ程までに涙を流した事は、もう幾年となかった事だ。それ程に悲しんだ。否、今も尚悲しみは消えない。だが、あの子の悲しみを思えば、自分の悲しみなど天と地程だと三日月は思った。
 薄汚れた布を深く被り稚さ残す顔を隠す子は、孤独な老将宗近を大変慕ってくれていた。それは、日に一輪しか作れぬという花を、唯々宗近の無事を願って毎日届けてくれた程だ。あの子の愛は三日月が持つ恋情とは異なるが、幼子が父や兄に持つ親愛とよく似ていた。そう、見返りを求めぬ健気な愛だったのだ。三日月は、そのいじらしい愛情を裏切ってしまった。あの時、あの子はどの様な気持ちで、「ありがとう。」という音のない言葉を残したのだろうか。
 「すまぬ。」
 幾度、雨の庭に頭を下げようが、あの子は帰っては来ない。吐いた深い息は、雨音に消えた。
 「おやおや、そんなに溜め息許吐いていると、幸せが逃げてしまうよ。」
 三日月が部屋の入り口へ目を移せば、そこには身の丈に反して穏やかな表情を浮かべる男が立っていた。
 「石切丸。そなた、何故ここへ?」
 風水に通じまた占星術も得意とする石切丸が、この部屋に近付く事は稀である。この部屋は、三日月が日々執務を行う部屋であり、政を行う為の部屋であった。石切丸は用事があれど、三日月がこの部屋に居る内は自ら寄りはしない。それは、政治を占い事だけで決めるのは良くない、との考えあっての物だという。必要な時にだけ、天の力を借りれば良いのだとも。
 さて、その石切丸が態々この部屋を訪れたのだから、何か余程の事があるのだろう。
 然し、石切丸は三日月の問いに頭を横に振った。
 「迎えに行ってあげなくて良いのかい?」
 誰を、とは言わない石切丸。三日月はあの子の名を出す事はしなかったが、健気に慕ってくれる子が居るのだと何度もこの男に話した事がある。可愛らしい小さな花を贈ってくれるのだと、杯を交わしながら話した事も。その時の三日月の様子を見れば、誰もが「三日月はその子を甚く気に入っている。」と口を揃えて言うだろう。尤も、三日月がその子について話した事があるのは、この男だけであるが。
 この男は、三日月の様子を知り、三日月とその三日月の愛する子の間に何かあったのだ、と察してくれたのだろう。
 「会えぬよ。俺にあの子を迎えに行く立場などないのだ。あの子を幸せにしてやりたいと思っていた男が、あの子を最も傷付けたのだ。一国の主ともあろう男が、情けない事だ。」
 そう直ぐ傍に居て手を握り返そうとしてくれた子を振り払ったのは、他でもない三日月自身だ。部屋の片隅に置かれた端切れの花は、哀しく俯いているようだった。丸であの子の様に。
 「それならば、仕方がないね。」、言った石切丸は、部屋を訪れた許だと言うのに、三日月に背を向ける。
 「何百の美女や才女を連れて来ようが靡かなかった月が、とても大切にしているというから、期待をしていたのだけれど。やはりどこの馬の骨知れぬ子だったという事だね。」
 「あの子をそんな風に言うでない。あの子は縁も縁もない男を、過ちを犯し自らを蔑む男を、庇い立て共に悲しんでくれる優しい子だ。風体はあの通りであるが、良い子なのだ。」
 三日月も始めはあの子の事を疑っていた。寧ろ、白い芙蓉の花につく害有る虫と思い、場合によっては亡き者とする事も考えていた。それが言葉を交わしてみれば、三日月の思っていた様な者とは丸で異なった。啖呵を切る様な勢いを見せたと思えば、消えてしまいそうな程の儚さを見せ。人を寄り付かせぬ様な衣を纏い乍も、幼子の様に無垢で健気であった。気が付けば、三日月は芙蓉の花を守る所か、その芙蓉の花に敵意を向けていた。穏やかな月も形を潜めてしまう程に。
 「三日月。それ程までに良い子が、人を恨む事があると思うかい。」
 寧ろ。と言う様な石切丸の言葉に、三日月は頭を強く殴られた様な衝撃を受ける。最後までその過去について明かさなかったが、薄汚れた布で姿を隠す子は、酷い劣等感を抱えている様であった。否、それだけではなく、全て己が悪いのだと内に抱え込んでしまいそうな危うさを携えていた。
 「石切丸。礼を言うぞ。」
 三日月は筆を置き、卓を離れた。脇目も振らず部屋を飛び出した為、実際に石切丸がどの様な顔をしていたかなど分からぬが、心底呆れていただろうと三日月は思った。

 晴天時より幾分滑りやすくなっている廻廊を行き、三日月はある場所を目指した。それはまだ屋敷を持たぬ故宮中の部屋を使っている若い将達の部屋である。
 「国広はおらぬか。」、と訪ねて来た主君に、二人の若者は目を丸くした。歌仙兼定、加州清光。彼らは三日月の探している国広と共に義勇軍として戦場を駆けて来た者達である。然し、肝心の国広の姿が見えない。
 「国広でしたら、今は鶴丸殿の屋敷で世話になっています。」と、柔和な声音で答えるのは筆を置き一礼した歌仙。
 自身の髪を弄っていたであろう加州は、一度肩を跳ねさせると「小鳥が国広から離れないんだって。」と、口先を尖らせた。その様子は、今まで苦楽を共にしてきた友を取られてしまったと、不貞腐れている様であった。
 「でもさ、鶴丸殿はあれで悪い人じゃなさそうだから良いけど。あいつらとも違うし。」
 敬語も用いずさらりと告げる加州に、歌仙は呆れた様に己の唇に指を添える。それ以上言ってはいけないと諭す様に。否、今は言葉遣いを嗜める意味もあったであろうが。然し乍、三日月はその言葉遣いを咎めるつもりはなかった。
 「よいよい。いつものそなたらで構わんよ。暇を持て余した老人が、ふらふらと訪ねて来たと思っておくれ。して、あいつら、とは?」
 鶴丸の名を聞いた時、三日月はすぐさま鶴丸の屋敷へ向かおうとも思った。だが、目の前の子の言うあいつらという言葉が、大変気になった。それは、愛しい子を取り戻す為に必要な知識だと思ったのだ。
 三日月が真剣な眼差しを向ければ、加州は少し許視線を泳がす。それから、三日月から視線を離すと、他方へそれを向けた。加州が視線を投げる先は、茶の支度をしている歌仙だ。
 歌仙は小さく溜め息を吐くと、こくりと頷いた。これは加州に発言を許したという事だろう。
 加州は、未だ入り口で立った儘の三日月に、目の前の椅子を勧めた。それは普段三日月が用いている物とは異なる。とても上等とは言えぬ椅子は、少しの事で小さく呻く。然し乍、三日月はこれを有り難く拝借した。それはあの子の知らない部分をまた一つ見付けた様に思えたからだ。
 芳しい香りをさせた茶が卓に並べられると、歌仙も席に着く。
 「くれぐれも公言は控えて頂きたい。」と言われれば、三日月はこれを快諾した。元よりここで聞いた話を人に話すつもりは、毛頭なかった。
 三日月の了承を確認すると、まずは加州が口を開いた。
 「俺たち、元々貧しい国の出身なんだよね。あ、出身って言っても、そこで会ったってだけなんだけど。俺たち、橋の下の子だからさ。」
 橋の下の子、その言葉に三日月は察する。故あって、この子らは天涯孤独となったのだろうと。その理由を尋ねるのは些か不躾ではないかと三日月が躊躇っていると、歌仙は目を伏せ首を横に振った。
 「国広の過去は、僕達にも分からない。」
 「あいつ、俺達に会う前の話するの、すっごーく嫌がるからさ。」
 そう加州は悲し気な笑みを浮かべた。友であり家族の様に苦楽を共にして来たであろう歌仙にも加州にも話さないとは、余程の事があったのであろう。そう思えば、三日月は胸が締め付けられる様であった。
 「でも、絶対に自分が嫌いになる様な事があったんだと思うんだよね。じゃなかったら、人買いに唆されなんかしないと思うし。」
 「あれで、あいつ俺なんかよりよっぽど男らしいし、強いし。なんか言ってて、むかつく。」、と口先を尖らせる加州だが、それが本当に国広を妬んでいる言葉でない事は明白である。言うなれば、年の近い兄弟を少し許羨ましく思う幼子のそれに似ている。
 この加州と、その隣で「まったく、君は。」と呆れ乍も微笑む歌仙の様子を見て、三日月は成程と思った。あの愛しい子があれ程まで無垢で居られたのは、この子ら在っての物だと。「この子らには、感謝をせねばなるまい。」、と三日月は心中唯々頭を下げる。
 「三日月さんは、さ。」
 そう三日月の名を出した加州は、身を乗り出す様にして三日月に顔を寄せた。突然の事に、三日月も目を丸くする。然し乍、柘榴石の双眸が真っ直ぐに射抜くので、弧を描く月はそれに応える。
 「あいつの事、ちゃんと命が有る生き物として見てくれるよね。あいつ、売り物なんかじゃないから。もし、アンタがあいつの事、そういう風に思ってるなら、俺容赦しないから。」
 ぽつり、柘榴石から雫が落ちる。ぽつり、ぽつり、雨粒は卓を濡らした。三日月は雨に染まる柘榴石の麓を、そっと撫でてやる。
 「加州。俺は一度はあの子を傷付けたが、もう同じ過ちはせんよ。まして、人買いの様にあの子の命を粗末に扱うなど、絶対にせん。この一つしかない命を賭けても良い。俺は唯、あの子に笑っていて欲しいだけなのだ。」
 約束をすると三日月が告げれば、加州は己の目元を子供の様に両腕で擦り乍、「約束だからな。」と。また、加州の隣に居た歌仙は「彼を、よろしくお願い致します。」と、静かに頭を下げる。三日月はこれに対し、確りと頷いた。もう二度とあの子を悲しませる様な事はせんと、誓いを立てて。

***

 鬱蒼と茂る木々は、狂気を孕んでいる様だった。否、内に取り込んだのは、怒声と悲鳴、血と涙であったか。どれ程走り続けただろうか、既に満身創痍であった。だが、手を取ってくれる者が居たから、走り続ける事が出来たのだ。
 背後から響く声と、目の前に現れる分かれ道。
 「兄弟。ここからは一緒に行ってあげられないけど、兄弟なら大丈夫だよ。」
 「うむ、兄弟は拙僧たちの自慢の兄弟である。兄弟ならば、この苦難必ず乗り越えられるであろう。」
 それまであった温かな手は、するりと離れて行った。嫌だと縋る手を、やんわりと解かれ。
 「駄目だよ。大丈夫、生きていればまた会えるよ。」
 だからお行きと、背中を押される。最後に兄弟から貰ったのは、白花色の衣。頭からすっぽりと被るそれを、ぎゅっと握り締めて闇の中へ滑り込む。
 進む道は、道なき道。突き出した枝は、薄い皮膚を容易に突き破る。幾度と石に躓いた為、膝も血と土に汚れてしまった。然し、泣く事は出来なかった。兄弟との約束を守る為。
 不意に聞こえる人の声に、慌てて木の陰に身を隠す。汚れてしまった白花色の衣を握り締め、息を殺した。
 「たかが少数民族の長が、姫君を攫って子を孕ますなど。城主様がお怒りになるのも当然だ。」
 「しかも、生まれた子は長義様に似ているらしいな。でも、長義様よりも見目が良いとか。なんでも金細工と翡翠で作られた玉であるとか。」
 「そのようだな。城主様はその子供は、絶対に殺せとおっしゃっていた。」
 「それはそれは、勿体無いな。育てば良い妾になったかも知れないのに。残念だ。」
 嘲う様な会話は、軈て闇の中へと消えて行く。指先の、否、全身の震えは止まらなかった。震えは、呼吸冴えも困難にさせる。ひゅるりひゅるりと抜けるのは風の音か、将又。
 苦しみ喘いでいると、また別の声が聞こえてくる。それは、丸で断腸の叫びの様であった。何度も何度も繰り返される言葉、それが己の名であると気付いた時、国広は目を開いた。

 「大丈夫か?酷く魘されていたみたいだが。」
 国広の背中を摩るのは、雪の様に白い手だ。その手を国広は知っている。途端、全身から力が抜け、くらりと傾いた。白い腕は、その身体をそっと抱き留めてくれる。
 「国広?」
 心配だと言わん許の琥珀に、国広は「何でもない。大丈夫だ。」と首を振った。夢で垣間見た忘れかけていた過去に怯える程幼くもない。否、昔より幾分大人になったとは、思っていただけだ。その証拠に、この様な夢を見れば、無理難題でこの白い男を困らせているのだ。
 嵌められた足枷が簡単に外れる物である事など、直ぐに分かった。この白い男が優しい事を分かっていて、国広は甘えたのだ。宗近に対してもそうだ。自分の様な卑しい生き物にも、優しく接してくれる男だと分かっていて、甘えたのだ。我乍ら最低だと、国広は心中自嘲した。
 だが、この白い男は、国広の心の内を読んだかの様に微笑み、優しく指で髪を梳く。
 「国広、君は悪くない。君は少し頑張り過ぎだ。誰にだって、怖い物はあるさ。勿論、俺にだってある。」
 国広は何も言葉にする事が出来なかった。ただ、はらりはらりと落ちた雨は止まず。白い花に頬を寄せた。白い男は察する様に、唯々優しく国広を胸の内に抱いた。それから、良い事を思いついたと言う様に、明るい声で話した。
 「今晩、俺が君の隣で寝よう。もし、君が恐ろしい夢の中に攫われそうになったら、俺が必ず君を助ける。君を連れて行かせはしないさ。そうだ、君を俺の夢の中に招待しよう。花に囲まれた場所で、君の好きな小鳥達も遊んでいる。きっと、君も気に入る筈だ。」
 得意げに笑う白い男に、国広は訝しむ様な顔をして見せる。本当は分かっているのだ、この男ならば必ず助けに来てくれると。それでも、それに素直に頷くのは少し気恥ずかしい。
 白い男はふっと笑って、国広の頬を撫でた。
 「君のそういう意地っ張りで天邪鬼な所も、俺は存外気に入っている。」
 「俺はアンタのそういう所が変だと思う。俺みたいな奴の相手をしていて、アンタ疲れないのか?」
 言葉を交わした数少ない人々の多くは、国広に必要以上に近付こうとはしなかった。尤も、近付かせぬ様にしていたのは、国広自身であるが。
 然し、国広の問いに、白い男は楽し気に笑った。
 「確かに君は気難しいと思うが、根は素直だ。俺は君と居ると楽しいんだ。」
 どこまでも穏やかで雄大な琥珀の世界に、翡翠はするりと吸い寄せられた。

 朝を告げる歌は小鳥の囀り。耳元で聴く可愛らしい歌声に、国広はぼんやりと瞼を開けた。
 「俺の夢はどうだった?なかなかに楽しめただろ。」と、楽し気な声は国広の直ぐ隣から聞こえた物だ。寝惚け眼を擦り、声の方に目をやった国広は、慌てて身を隠そうとする。それは、己が幼子の様に白い腕の中にすっぽりと納まっていた為である。恐らく、この白い男は一晩中、国広の傍らに在り続けたのだろう。羞恥心に、国広は耳までも朱に染めた。

***

 ひらりひらりと一枚の木の葉が、卓の上へと舞い降りた。
 落ちた木の葉を境に、鶴丸と月を宿す男は向かい合う。互いに穏やかな笑みを浮かべ乍も、それは河を挟み対峙する将と同じ。相手を討ち負かさんと腹を探り合う。
 月を宿す男を前に、鶴丸はくすりと小さく笑って見せた。
 「君にしては遅かったな。君ならば、絶影よりも赤兎よりも速く俺の屋敷へ現れると思っていたんだが。」
 廻廊で出会った月は、普段の形とは似ても似つかぬ程に激昂していた。無論、それが単に愛おしい子を奪われた為の怒りなどでない事は、鶴丸もとうに分かっていた。だからこそ、直ぐにでも取り返しに来るかと思っていたのだ。姑息な罠に嵌り、囚われてしまった憐れな小鳥を解放する為に。
 「天の月が駄馬だったなんて、笑い種にしかならないぜ?」、と鶴丸が態とらしく笑って見せれば、地上の月はふっと笑む。それは鶴丸も知る笑みであった。そして、その微笑はこの男が月に喩えられるもう一つの理由であった。
 「なに、少し許り乗り手を探して居っただけよ。一日に千里を駆ける馬とて、それを操る者が居らねば、行き先を違えてしまう。」
 弧を描く月は宛ら千里先も見えている様だ。そう、千里を駆けずとも千里先を見ている様なのだ。それは悠久の時を生きる玉兎が如く。
 然し、鶴丸とてそれで容易く怯む器でもない。
 「それで、今は乗り手を見付けられたという事か?」
 乗り手と例えられたそれは、馬が駆ける理由。詰り三日月という男が、再び国広という青年と向かい合う理由である。鶴丸は目の前の月を試す様に尋ねてみれば、月はうぬと頷いた。そして、先の笑みとは一変し、悲しげな目をする。
 「あの子に必要な物は恋情でなく、何物にも勝る無償の愛だ。然し、俺はあの子を、己の内に囲う事許りを考えて居ったのだ。躍起になっておったのだ。まずはあの子に伝えるべき事があったであろうに。鶴、俺はあの子に笑って欲しいのだ。」
 「奇遇だな。俺も同じ考えだ。あの子は俺には口先を尖らせる許りで、素直に手を取ってはくれないんだ。」
 「君の手は簡単に取ったんだろ?」と鶴丸が尋ねれば、案の定三日月は肯定で答える。然し乍。
 「だが、鶴よ。確かにあの子は宗近の手を取りはしたが、宗近はあの子が幼子の様に拗ねる様を見た事がない。鶴。あの子は形はあの通りであるが、心は未だ未成熟だ。愛人よりも兄や父が必要なのだ。」
 三日月の答えに、鶴丸は「まったくだ。」と笑った。眠るあの子を抱き締め乍、鶴丸は考えていたのだ。鶴丸や三日月があの子に持つ情と、あの子が求める物の差異を。
 「どうやらそうみたいだな。一時休戦としないか?あの子が恋情という物を、理解出来る様になる迄。あの子には俺一人では不十分の様だ。」
 「その心算でそなたの屋敷へ来たのだ。尤も、先ずはあの子に許して貰えねば、何の意味も成さぬのだが。」
 伏せられた月。それは己の行いを大層悔いている様であった。だが、鶴丸は分かっていた。心配は無用である、と。
 「国広。この男はこう言っているが、君はどうだい?」
 鶴丸は部屋の奥へ呼び掛ける。驚いた様子を見せるのは、目の前の月だけではない。先程から部屋の様子を伺っていた目があった事に、鶴丸は気付いていた。その様が小動物によく似ていた物で、鶴丸は心中微笑んでいたのだ。
 「君も本当はこの男に会いたかったんじゃないか?」
 そう鶴丸が尋ねれば、物影に隠れた雛は少しだけ顔を覗かせる。深く衣を被っている為、相変わらずその表情は分かり辛いが、纏う空気で何と無く分かる。寂しいと訴えているのが。それは拾って間もない頃の小鳥と同じであったから、鶴丸には分かるのだ。
 「国広。この男は、君を突き放す為に来た訳でも、君を再び騙す為に来た訳でもない。君に謝りに来たんだ。せめて顔を合わせてやってくれないか?でないと、この男は君を傷付けただけの最低な男になってしまう。君もこの男を、そんな最低な男にはしたくないだろ?」
 鶴丸の言葉に、隠れた雛は驚き慌てた様子を見せる。やはり雛は、この月を大切に思っているのだろう。だから、月が悪く言われてしまう事を恐れているのだ。鶴丸はその様をいじらしく可愛らしいと思った。小さな体で、必死に父や兄を庇おうとする幼子の様だと。
 雛が顔を出すと、月は椅子から立ち上がり振り返る。それから、月は深々と頭を下げた。
 「国広。そなたに嘘を吐いた事、本当にすまなかったと思って居る。何度謝ろうと足らん程だ。」
 この通りだと、三日月が改めて頭を下げると、雛は慌てて駆け寄る。
 「アンタは、何も悪くない。俺が勝手に思い込んだだけなんだ。」
 頭を振る国広と、顔を上げる事の出来ない三日月。鶴丸は呆れて助け舟を出してやる。
 「国広。ここはその男に謝らせてやってくれ。言っただろ?この男が最低な男になってしまうと。だから、君はそれを受け入れた上で、許してやって欲しい。」
 「駄目か?」と鶴丸が尋ねれば、衣を被った頭は首を振った。その答えに、感極まった三日月は、国広を抱き締める。国広もそれを素直に受け入れた様で、小さくはにかんでいた。
 「そなたに侘びがしたい。何が良い?」
 三日月が尋ねれば、国広は逡巡した様に鶴丸の方に顔を向ける。鶴丸はやれやれと笑った。
 「君、三日月が話していた桃の園が見たかったんじゃないのか?咲くのは当分先だろうが。それにしたらどうだ?」
 「そんな事で良いのか?」とは三日月。然し、国広は控えめながら嬉しそうに、こくり頷いた。三日月がそれに答えた事を見届けると、鶴丸は中庭の方へと視線を向ける。それ程広くはないが、国広も気に入ってくれた自慢の庭だ。
 「さて、問題も解決した所で、今夜は三人酒盛りでもしようじゃないか。小鳥が酌でもしれくれたなら、酒も美味くなるに違いない。」
 三日月は「うぬ。」と答えるも、鶴丸の言う小鳥に当人は気付いていないだろう。然し、その様な所も可愛らしいのだと思うのは、雛に大層惚れ込んで居る故だろう。
 さて、この場をとりあえず収めようかと鶴丸が口を開こうとした時、別所から声が響き渡った。それはこの場に在る者の声ではない。玄関先からである。随分と慌てた様子だ。古備前から来客がある予定だが、それとは異なるようだ。
 鶴丸が動き出す間もなく、「失礼します!」と一人の兵卒が庭へと駆け入って来た。
 「鶴丸殿。休戦協定を破り、敵が進軍をして参りました。まだ国境の砦には達していないようですが、こちらへ向かっているとの事。」
 「分かった。直ぐに手を打とう。まずは出陣の準備を。」
 鶴丸の与えた指示に、兵卒は応えすぐさま屋敷を発つ。
 「戦か。あの儘大人しくしておれば良かった物を。」
 鶴丸も「あぁ。」と頷く。休戦協定からそれ程日が経ったとは言えない。敵が国力を取り戻すにも足りぬだろう。それに引き換え、鶴丸の仕える国は元より国力を持ち、粟田口や古備前などとも交流がある。
 「残念だが、酒盛りはまたの機会だな。小鳥の酌もその時迄取って置こう。」
 「そのようだな。先ずは邪魔者を追い返してやらねば。」
 中庭の木々がざわりざわりと鳴く。それは軍馬共の足音の様であった。

***

 山岳は青々と茂り、蒼は何処までも続いていた。
 今は怒声も悲鳴もなく、在るのはあちらこちらに設けられた天幕のみ。兵は次に刃を交える迄の僅かな安らぎにまどろむ。
 「休戦協定を破って進軍をしてきたと聞いた時は驚いたけど、どうやら奇策も何もなかったようだね。」
 陣中より遠方を眺める歌仙。その隣で、国広は「あぁ。」と頷いた。余程の奇策を携えて進軍をしたのであろうと、誰もが思っていた。然し乍、いざ戦となれば無策に等しかった。故に三日月の軍は容易に敵国を押し返す事が出来たのだ。更には、敵の砦冴えも間近に迫っている。城攻めは下策と言われるが、この様子ではその砦は瞬く間に降ちるだろう。
 「でも、早く帰れそうで良かったじゃん。あいつに無駄な心配されなくて、済むし。」
 跳ねる様な足取りで国広の隣に現れたのは、文を手にした加州であった。
 「国広も無駄な心配されなくて済むし、ね。」、と差し出された文を、国広は受け取る。送り主など分かっていた。それは毎日届く物だからだ。
 「安定、自分が戦に出られないからって、俺の事戦馬鹿って言うんだよね。」
 「むかつく。」と口先を尖らせる加州だが、それが心底腹を立てている物でない事は国広もよく理解していた。それは、隣の歌仙も同じである。
 「僕も塾の子たちが心配するからね。」
 歌仙は仕事の合間に塾の手伝いをしていると、国広は聞いていた。小夜という子が居て、国広に似た所が有るから心配だ、とも。加州は加州で、商人の跡取り息子と交友があるのだと。武芸は達者だが、年老いた養父の代わりに、店の切り盛りをしなければならないとも、国広は聞いている。
 歌仙や加州と異なり多くに交流を持たぬ国広であるが、国広にはこうして届く文がある。それは今は離れた地にある砦から出された物だ。国広が文を開けば、そこには国広の安否を尋ねる内容が認められている。それから、無事に帰ってくるように、と。最後に小鳥と小さな花の絵で締め括られているのは、いつも同じ。お世辞にも上手いとは言えない絵に、国広は笑みが零れる。
 そうしている間に伝令が届く。それは進軍を知らせる物であった。

 馬を駆り、刃を振るって、どれほど経つか。死屍累々の地で、国広は乱れた息を整えようと試みる。無論、その間にも迫る矛を避けなければならない。元より薄汚れた襤褸であったが、それは敵味方誰の物とも最早分からぬ紅に染まっていた。
 異変に気付いた頃には、既に満身創痍であった。小部隊を率いる歌仙の撤退指示があり、国広もそれに従おうとした。然し、多くの敵兵がそれを阻む。
 天はあれ程蒼いというのに、広がる景色は赤なのだ。
 ぷつり、意識が途切れた。

 ざわめく人々の声で、国広は目を覚ました。そこは決して、宗近の部屋でもなければ、鶴丸の屋敷でもない。ひんやりと冷めた床が、残された体温を奪って行く。
 霞む視界で捉えたのは、床に座しているだろう人の足。それはがたがたと、建て付けの悪い戸の様に揺れている。視線を僅かに上げれば、それは味方の兵であると分かった。
 ごとり、国広の隣に、先まで上にあった筈の頭が落ちた。吹き上がる赤。床は瞬く間に紅へと染まる。
 起き上がろうとしたが、それが徒労に終わったのは、身体の自由を奪われている為だ。国広は、奥歯を噛み締めた。戦場で散る心算が、この様な無様な終わりを迎えようとは、と。宗近や鶴丸、友に会えなくなる事。桃の園が見られない事。未練がないと言えば嘘になるが、逝くのならば潔く散りたかったのだ。  然し、待てども刃は振り下ろされず。代わりに深く被っていた襤褸を、引き剥がされた。途端、周りが一層騒がしくなる。
 国広から襤褸を剥いだ男は、口角を上げて嘲笑う。
 「成る程。あの月や花が寵愛するだけの事はある。月と花を得る為の餌になれば良いと思っていたが、唯の捕虜にしておくには勿体無い。」
 無理矢理上げさせられた顔を、国広は歪める。月や花は、国広を大切にしてくれている宗近や鶴丸の事であろうと、国広にも直ぐに分かった。目的は分からぬが、その宗近や鶴丸をこの男は得たいと言っているのだ。国広はそれが許せなかった。腸が煮えくり返る程に。
 国広は目に角を立てるが、男はからからと笑うのみ。
 「じゃじゃ馬も悪くはないが、大人しく妾になると言うのならば、可愛がってやろう。」
 近付く男の顔に、国広は顔を背ける。荒い鼻息が心底不愉快であった。
 「誰がアンタなんかに従う。」
 「そうか、そうか。ならば、牢の中で考えると良い。それに、月と花が手に入れば、お前は用済みだ。それまでに、俺の機嫌を窺っておくのが、身の為だと思うぞ。」
 どんと突き放された国広は、また冷たい床に転がった。痛みはあるが、目の前の男に屈するのは、国広の矜持が許さなかったのだ。そして、何より。この男があの優しい二人に触れるなど、死んでも許せないと、思ったのだ。
 襤褸を剥がれ、閉じ込められた鳥籠に、国広は乾いた笑いしか出来なかった。涙は流れなかった。
 この鳥籠に連れられて来る迄、国広は考えた。どうすれば、二人を守る事が出来るのかと。そして、鳥籠に入れられた時、気付き思いつく。但し、それは二度とあの二人と会う事が出来ない最後の策であった。
 切り裂く着物は、口を一文字に結ぶ国広の代わりに、辛いのだと悲嘆の裂帛を上げる。木の格子に爪を立てれば、小さな木片を削ぐ事が出来た。幾つかの爪の代わりに。滲む赤で染めるが、それでは足らず。塞がり掛けた傷口を抉り紅を得る。
 身を削り、血を流して、出来上がった一輪の赤い花を手にして、国広は瞼を閉じた。二人と桃の園が見てみたかった、と。脳裏で描く淡い色の世界には、求めても二人の姿はなかった。そう、その地は国広が一人で逝かなければならない地なのだ。こんな思いをするのならば、幼い頃に暗い森の中で何も知らぬ儘一人逝けば良かった物を、と嘆いた所で栓なき事だ。
 肩に乗る小さな重みで、国広は改めて覚悟を決める。肩に居たのは、一羽の小鳥であった。閉じ込められた鳥籠には、天井程の位置に小さな小窓があった。そこから入り込んだ様である。国広が幾ら手を伸ばした所で届かぬ出口を、この小鳥は用いる事が出来るのだ。
 国広は今し方出来上がった赤い花を、小鳥に預けた。
 「俺の言葉が、もしアンタに分かるなら。これを向こうの陣まで届けて欲しい。」
 黄色の翼と緑の目をした小鳥。小さな嘴に赤い花を携えると、高く高く飛び上がった。宛ら、国広の思いを酌んだ様に。
 間も無く、こつりこつりと固い床に足音が響く。国広が横目で格子の向こうを見れば、そこには眼帯で片目を隠した兵が一人。
 「アンタの主に伝えろ。アンタの妾になっても良い、と。」
 吐き捨てた国広に、眼帯の兵は目を丸くする。「本当に良いのかい?」と尋ねられれば、国広は鼻で笑った。
 「侮るな。情けは無用だ。」
 そう捕虜への詰まらない情けは不要だ。それに、国広は既に覚悟を決めていたのだ。その為に、花を預けたのだから。

***

 三日月は知らせを受け、絶影にも赤兎にも勝る勢いで、砦を発った。元より戦場に近い砦に控えていたのだが、その知らせを受けた時、三日月は止める家臣を振り切り、戦場へと駆け付けたのだ。
 少々乱暴に天幕を潜れば、そこには手当を受けた歌仙と加州の姿があった。然し、そこに三日月の愛しい子は居なかった。
 知らせが届く前、偶然にも戦場へと足を伸ばしていた鶴丸。その鶴丸も落胆した様に、部屋の隅で項垂れている。
 「普通なら、あんな場所に、あれ程の兵を割く理由はない。奴らの狙いは、始めからあの子だ。」
 鶴丸は苦虫を噛み潰した様に、血を吐くように言った。気付いていれば、あの子を戦場に送り出しなどしなかった、と。
 それは三日月も同じであった。愛しい子を送るのは、気が気ではなかった。然し乍、あの子が二人の役に立ちたいのだとあまりに強く言うので、結局三日月と鶴丸が折れたのである。こんな事になるならば、閉じ込めてでも城に残せば良かったと、唯々嘆く。
 敵軍は最早用は済んだと許りに、砦迄退いたという。戦場に残されるは骸のみ。その中に、愛しい子の物はなかった。ならば何処へ行ってしまったと言うか。答えは唯一つ。
 「国広。どうか、無事であっておくれ。」
 三日月は、脳裏に愛しい子の姿を思い描き、どうかどうかと願う。然し、世は無情にもそれを嘲笑った。
 「殿!敵がこんな物を、送り付けてきました!」と、兵が差し出したのは、敵軍から送り付けられたという薄汚い布。既に乾いてはいるが、それが血と欲に穢されたという事など一目で分かる。そして、この衣の持ち主冴えも。
 「国広!」
 三日月が言葉を失う間に、鶴丸が兵からその布を奪う。そして、人目も気にせず泣き崩れた。
 「あの子はまだ恋のこの字冴え知らなかった!こんな事、あんまりじゃないか!」
 鶴丸の断腸の叫び。三日月も顔を伏せ、奥歯を噛み締める。三日月の愛し子は、三日月や鶴丸の邪な情を、親愛と受け止める程初心で無垢な子であった。当然、男所か女とも交わった事などないだろう。そんな子が無体を働かれたと思うと、握り締めた手にも爪が食い込む。あの子は泣いて三日月や鶴丸に助けを求めただろうか、それとも唇を強く噛み締め声なき声で叫んだだろうか。いずれにせよ、あの子が恐い思いをした事に変わりはない。
 なんという事だと下を向く三日月の視界に、小さな来客が割り込んだ。黄色い翼に緑の目をした可愛らしい小鳥だ。その来客に鶴丸も目を丸くする。それは、この小さな来客があの子によく似ていたからだろう。丸で人の身を棄て、二人の元へと帰ってきたかの様だ。
 小さな来客は携えてきた赤い花を、三日月の前で落とす。その赤い花を指先で拾い上げた三日月は、気付けば涙していた。
 「三日月?」、そう鶴丸に呼び掛けられて、三日月はふうと深い息を吐く。それから、鶴丸に赤い花を差し出した。
 「鶴。そなたも気付いておるだろうが、これはあの子が寄越した物だ。あの子は俺たちの思いに応えてくれる様だ。」
 「どういう事だ?」
 布を抱き乍花を受け取る鶴丸は、訝し気に顔を歪める。鶴丸はこの花の名を知らぬのだろう。
 「この花は雛罌粟だ。これはある男を愛した女の墓に咲いた花だそうだ。鶴よ。その女が何故、どの様にして、命を落としたか知っておるか?」
 「いや、その女の死とあの子がその花を送る事に何か関係があるのか?」
 「その女はな、愛する男の足手纏いになるまいと、自ら命を絶ったのだ。」
 三日月が告げれば、鶴丸も言葉を失った様に唯々花を見詰める。そう、あの子は己の命を持って、二人の愛に応えようとしているのだ。三日月は、なぜあの時雛罌粟の話などしてしまったかと、後悔した。知らねば、まだあの子は未だ答えを見付けられずに在っただろうに。
 三日月は頭を振ると、直ぐに出口へと向かった。何を天秤に賭けてでもあの子を取り返すのだと。
 慌てて兵が三日月の道を遮るが、そこで立ち止まる心算は既になかった。
 「退け。一刻を争う。あの子を迎えに行ってやらねばならんのだ。」、と無理にでも兵を退けようとする三日月。然し、兵は行かせまいと道を阻む。
 「まあ、そう焦るな。」
 唐突に聞こえた声は、天幕の外からだ。
 天幕の入り口が開けて内に入って来たのは、古備前からの来客。「三日月、鶴丸。久し振りだな。」、と戦場に似つかわしくない声音でそう話す。
 「鶯丸。すまぬが、今は一刻を争うのだ。」
 「だから、そう焦るな。今は茶でも飲んで、のんびり待てば良い。」
 悠長に構える鶯丸の様子は、常の三日月にも負けて劣らぬ。その鶯丸は、今は落着けと、三日月を説き伏せようとする。
 「何か考えがあるのか?」と、尋ねるは鶴丸。鶯丸は不敵な笑みを浮かべた。

***

 飾り格子の向こう、玉兎は雲隠れ。花影は何処かへ消えた。
 襦は白藍を添えた浅縹。揺蕩う裾は鳥の子色。被る白花色の領巾がゆらゆら踊る。
 「大変お似合いですわ。」と、女官たちは異口同音。己が飾り付けたのだと互いに衒う。
 国広は他人顔で格子の外を眺めた。餞には酷い天だと思い乍も、自分にはお似合いだと嘲笑う。
 「髪飾りはどれにしましょうか?」
 女官たちは卓に並べた飾りを前に、これが良い、あれが良いと詠う。国広はそれを横目に見るだけで、黙するのみであった。然し乍、一つの花飾りが視界の脇に入り込んだ時、国広は自ら手を伸ばした。それは無意識であったか、将又故意の物であったか。
 「あら、金の髪にも良く似合いますわ。それに致しましょうか。」
 一人の女官は国広の手から花飾りを取ると、金の髪をさらさらと梳いて飾る。
 艶やかに咲き誇る緋色の花を女官たちは口々に褒めそやすが、それが手向けの花であるなど誰が気付こうか。そう、それが国広が自身に向けた餞の花であるなどと、誰が思うものか。
 「参りましょうか。」と、女官に導かれ国広は廻廊を歩む。靡く領巾は、流れ落ちる涙。こつりこつりと泣く小振りな木靴が、国広の代わりに吃逆を繰り返した。
 国広が連れられて来た場所は、一つの扉の前であった。その戸の前には見張りの兵が立つ。
 「連れて参りました。」
 女官が告げれば、老年の兵はうぬと頷いた。何を連れてきたかなど、既に兵は分かっている様であった。顔の皺を寄せた兵は、「まだ年若いのに可哀想だ。」と頭を振る。女官も先の笑みを忘れたかの様に、「えぇ、本当に。」と悲しく俯いた。然し、国広が自ら命を絶とうとしている事など、彼らは知らぬ筈である。ならば、何故か。国広には分からなかった。
 女官の白い手が、領巾の下にある国広の頬を撫でる。丸で母が子を慈しむかの如く。尤も、国広には母の記憶など、既に遠い過去の物であるのだが。
 「貴方は綺麗な子だから、良い子にしていれば大切にして貰えるわ。恐ろしいと思います。ですが、決して逆らってはいけませんよ。」
 戦場に我が子を送るかの様に女官は、惜しみ乍も国広の背を押した。矢張り、その時には何故この女官がこれ程迄自分の事を気遣うのか、国広には分からなかった。そう、その部屋に足を踏み入れる迄は。
 酒池肉林とは言えぬが、卓の上には豪奢な食事が並び、椅子に腰掛けた男は踏ん反り返っていた。脇を囲うのは見目麗しい男女の姿。吐き気を催す甘ったるい香りは香か。どちらにせよ、国広には不愉快極まりない空間であった。
 だが、椅子に腰掛けるこの国の主は御構い無し。入り口に立った国広を手招きする。
 「こちらへ来い。愛でてやろう。」
 舐め回す様な視線と不躾な言葉。国広は唇を噛み締め乍もそれに従った。白花色の領巾が、国広の代わりに行きたくないのだと首を振る。無論、逆らうのは領巾のみ。先の女官とは似ても似つかぬ手が、国広の頬を撫でる。
 「雑兵どもにくれてやるのは、襤褸布だけで正解だったな。月も光を消し、花も恥じらう、満更噂だけではなかったという事か。」
 男は喉の奥で笑うと、国広に触れた手を添う様に下ろしてゆく。卑しい手は顎の形を確かめたかと思えば、首筋を這う。国広は今直ぐにでも拳を振り上げたい衝動に駆られたが、それをぐっと奥歯を噛み締める事で堪えた。然し、国広のその様を、男は違えて捉える。
 「恐ろしくて震えているか。なに、心配ない。お前は存外悪くない。存分に愛でてやろう。見張りを残して、他の者はもう下がれ。今夜はこいつ一人で十分だ。」
 唐突に告げられた言葉に、麗しい男女はなんと言う事だと嘆き乍も部屋を去って行く。
 脇に控えていた女が一人、甘える様に男に縋る。だが、男は唯々国広を舐め回す様に見ていた。
 「酌をしろ。」と男が命じたそれは、女への物ではない。「早くしろ。」と急かすので、国広は酒器を手に男の杯を満たした。杯の酒は水鏡。鏡の中の己の姿に嘆いた所で、致し方のない事。ならばせめて、早く消えてしまえと願うのみ。
 国広が杯を満たす間に、女は男に身を寄せ縋る。然し、国広にはこの男にそれ程の価値があるとは、到底思えなかった。男に価値がないとすれば、何故縋るか。先の女官の言葉が、国広の脳裏を過ぎる。国広がその答えに至る迄の間に、男は刃を抜いていた。
 「諄いぞ!もうお前は用済みだと言った筈だ!」
 振り上げられる刃。炯炯と怪しく鈍く光るそれが下ろされたならば、一つの命が絶たれるであろう。だが、その生命は繋がれた。国広の手に由って。
 国広は男の手首を掴むと、くるり領巾を絡めて刃を奪った。
 「おい!貴様!」と声を荒げるのは男。それも当然であろう。国広もまた、この男に歯向かった事になるのだ。国広は矜持が傷付けられるのを耐え乍、静々と頭を下げた。
 「派手な物は出来ないが、少しの剣舞位ならば。」
 そう国広が申し出れば、男は機嫌を一変させる。「ならば、舞ってみよ。」と。
 国広は男から奪った剣を手に、部屋の中央へと歩む。ちらりと女に目配せをすれば、女は慌てた様子で逃げて行った。部屋には、国広と男、黙した儘の隻眼の兵だけが残された。
 観客がたった二人のそこで、国広は刃を手に領巾を翻す。洒落た物など出来ないが、戦場で鼓舞する程度の物ならば国広にも舞う事が出来た。
 振り抜かれる刃は玲瓏で有りながら、追う領巾は玉響に微睡む。裾は揺蕩う河、襦は過ぎる風、ひらりひらりと朱色の花弁が零れ落ちた。紅涙が如く。
 国広が刃を静かに下ろした所で、男は手を叩く。
 「実に見事だ。可憐なお前には、その赤い花が良く似合うな。」
 男に他意はないだろう。然し乍、国広はまったくだと鼻で笑う。自分の様な卑しい身には、似合いの結末だと。
 「アンタはこの花を知らないだろ。」と、嘲笑う国広。男は目を丸くするのみ。
 「アンタにくれてやる物は一つもない。俺の死は既に伝わっているだろう。残念だったな。」
 鼻で笑って、国広は己の首筋に刃を添えた。刎死の覚悟などとうに出来ていた。喩え散華となれぬとて、徒花にはなるまいと。然し、その国広の細やかな願いを妨げる者があった。
 からんからんと転がり落ちる刃。国広は冷めた床に縫い付けられた。
 「離せ!」と遮二無二暴れる国広だが、隻眼の兵は「早まらないで!」と国広の自由をまた奪う。男は激昂した様に剣を拾い上げると、国広の前で立ち止まった。
 「おい、そいつを確り押さえて居ろ。」
 国広を取り押さえる隻眼の兵は驚いている様だが、国広には好都合であった。己の手で絶つ事が出来なかったが、結果は同じになるのである。捕虜冴え居なければ、優しい宗近や鶴丸とて心置きなく砦を攻める事が出来るであろう。
 振り下ろされる刃。それを止める者は居なかった。否、一つ目の兵は止めたかった様だが。
 飛び散る朱殷は、花弁でもなければ、紅涙でもない。国広は一瞬息を詰まらせた。願ってもないが、瞳からはつるり雫が零れる。
 「こいつの手当をしてやれ。こいつを殺すのは惜しい。籠の中で一生飼ってやろう。」
 残忍な高笑いが、国広の耳を穢す。染まる両足は繋がっては居たが、己の物かも分からぬ程に感覚がなくなっていた。その事に、国広は唇を噛み締め、涙を流した。

 華やかな調度品と飾り格子で彩られたそこは、捕虜を捕らえる牢にしては立派過ぎた。そう、国広は既に捕虜ではなくなってしまったのだ。妾へと落ちてしまったのだ。男子として刀を振るう事も弓を射る事も出来ぬ身となってしまった。元より卑しい身ではあったが、戦にも使えぬ様になれば最早木偶の棒だ。これは逆罰だ。あの白い軍師に無理難題を押し付けた罰なのだ。乾いた笑い冴え、もう出なかった。
 「痛いよね?」
 心配そうに顔を歪めるのは、眼帯で片目を隠す兵。牀に腰掛け俯く国広の足を、その兵は慈しむ様に撫でた。その兵の行動が、国広には理解が出来なかった。何故、捕虜などをそれ程まで気遣うのかと。
 「同情する位なら、殺してくれ。」、とは国広が血を吐く様に言った言葉。然し、この兵は首を縦には振らなかった。「そんな事をしたら、僕が長義君に殺されちゃうよ。」と。
 「もうすぐ、助けが来るから。それまでもう暫くの辛抱だから。」
 虚ろな目をした国広の体を抱き締めたのは、隻眼の兵であったか。記憶の中にあるあの優しい手であったか。既に国広は分からなくなっていた。唯、散りたいと。それだけを願った。

***

 将兵の多くが発った本陣は、幾分静かであった。騒いでいる者があるとすれば、蟲か蛙であろう。
 薄暗い天幕の下、卓を囲うのは、鶴丸とその主君、そして一人の客人。卓の上に置かれた茶に、鶴丸は手を付ける気になど到底なれなかった。それは三日月も同じであったのだろう。器の中の水嵩は丸で変わっていない。そうここで水嵩が変わった器は一つのみ。
 「鶯。君の言う事を信じて良いんだな?」
 本来城へ訪ねてくる予定であった来客は、鶴丸と三日月が戦場へ赴いていると聞き、態々戦場へ足を運んだに違いない。そして、打ち拉がれる許の天幕へ現れると告げた。日が傾いた頃、悟られぬ様に砦を囲め、と。情けない事ではあるが、軍師である鶴丸は意気消沈し何の良策も思い浮かばず、これに従った。
 この鶯丸が提示した策について鶴丸が尋ねるが、悠長に茶器を傾ける鶯丸は「これは旨い茶だな。」と笑うのみ。これには、鶴丸も目くじらを立てる。三日月も口許を隠し、「そうか。」と答えるが、目は丸で笑っていなかった。
 「君には関係のない捕虜かも知れないが、俺たちにとっては唯一無二の子だ。」
 「これはこれは、顔が赤くなってますます鶴の様だな。月も酷い有様だ。あまり憤っていると、その子が帰って来る前に死ぬぞ。それに、俺にとっては唯の捕虜というのは、大間違いだ。」
 「大包平にとってもだ。」という続きの無駄話はさて置き、鶯丸の言葉に、鶴丸も三日月も小首を傾げる。確かに鶴丸も三日月も、鶯丸に送った文には何度もあの子の事を綴っていた。いつか己の伴侶にしたいと密かに認めた事もあった。然し、鶯丸とあの子は会った事も無ければ、あの子は鶯丸の事など知りもしないだろう。
 「俺は翡翠を咥えた?雛を、長く探していた。」
 翡翠を咥えた?雛、鶴丸には心当たりがあった。きらきらと光る金の髪と、澄んだ碧の瞳を持つ小鳥。鶴丸と三日月が愛して止まない子だ。
 「昔話の一つでもしようか。」と、鶯丸は始めて茶器を卓の上に下ろした。既に器の中が空であった事は、今は特筆すべき点でもないだろう。
 「俺の国では昔、手違いに無用な戦が起こった。なんでも親の命で或城主に嫁がされた娘が、部族の長に恋慕したそうだ。その部族の長というのも、伴侶を亡くしていたそうだからな。互いに具合が良かったのかも知れんな。」
 鶯丸がそう話す過去は、確かに起こり得る出来事であろう。好いてもいない男に嫁がされた娘が、別の男と駆け落ちをする。寧ろ、巷ではよく聞く話である。然し乍。
 「それと君が?雛を探す関係がどこにあるんだ?」
 よくある男女の痴情の縺れ話と?雛に何の関係があると言うのか。鶴丸には甚だ疑問であった。それに対し、鶯丸は僅かに口角を上げる。
 「もし愛しい子が攫われて、その子が望んでもいない子を孕まされたとしたら。どうする。」
 揶揄する様な鶯丸の言葉に、鶴丸は息を飲んだ。状況が状況であるからこそ、三日月も口許を隠していた手が力なく落ちる。鶴丸と三日月の愛しい子が孕む事などない。鶯丸が示す言葉は、それではないだろう。そう、鶴丸の愛する子は、己を極端に卑下する事が多かった。己は誰にも望まれぬ存在であると言わん許に。そして、口を一文字に結び乍も愛に飢えていた。
 「まさか、君。」
 「攫われたというのは誤報だった、と知らされたのは後になってからだ。大人たちのつまらん痴情騒ぎで迷子になった?雛を、俺は探している。その城主は俺の家臣だ。ならば、主の俺が気にかけるのは当然だ。」
 その言葉に鶴丸は思い出す。今になって思えば、鶴丸の便りに対して鶯丸が返す物には、必ず国広を気に掛ける内容が含まれていた様な気がするのだ。身分に分け隔てなく命を大切にするよう言い聞かせる鶯丸だから、これもその一つであると鶴丸は思っていた。然し乍、直接は関係していないもののそこには懺悔が含まれていたのだろう。無論、その様な生い立ちにある子だからこそ、前者の思いも多分に含まれていたのだろうが。
 「そろそろだ。もう少し茶を楽しんでいたかったが、いい加減あの男の阿呆面を拝みに行くとするか。」
 明日の天気でも話し乍、出掛ける先を問うかの様に笑う鶯丸。当然ながら、行く先は既に兵が密かに囲っている敵の砦だろう。天幕を訪れた鶯丸は告げた。無駄な殺生が好きではないので、先に種を撒いてあると。今、三条が対峙している国は、至極悪政であると他方に知られていた。大包平と茶の話しかしないと言われる鶯丸だが、実は影で策を巡らせていたのだろう。無用に命が奪われる事が、これ以上ないように、と。訪問に来ると言い乍も、この男はこの展開を読めていたのかも知れないと、鶴丸は悟った。
 「君には敵いそうにないが、小鳥はやれんな。」と、鶴丸。それに同調するのは、同じ子を愛する三日月。鶯丸が、本当に国広を迎えに来ただけで、そこに邪な物など寸分も含まれていない事など、鶴丸もよく分かっていた。三日月もそうであろう。然し、それでいて、国広を手放すなど考えられなかったのだ。
 「まぁ、それは小鳥が決めるさ。」
 鶯丸は反論するでもなく、そう笑った。

 馬を駆り、鶴丸たちが敵の砦へと辿り着いた時、既に騒ぎは収まっていた。元々、無駄な殺し合いなど起こらぬ様よくよく細工されていたのだと、鶴丸には直ぐに分かった。大凡、砦の内側から門を開けさせ、一気に攻め入ったのだろう。
 敵将は皆縄を掛けられ項垂れていた。尤も、この期を逃すまいと、反旗を翻した者もあった様で、一部の兵や女官は三条の将兵の手助けをした様でもあるが。まずは戦が収まった事に違いはないだろう。
 「国広!」
 先に声を上げたのは鶴丸ではない。常ならば静かに佇む天の月も愛しい子の無事を知り、居ても立っても居られなかったのだろう。然し乍、それは鶴丸も同じであった。
 愛しい子を抱えているのは、眼帯の兵であった。その兵の抱え方が大変丁寧であった事、またその兵が鶯丸の差し金である事、この二つで鶴丸は安堵の溜め息を吐いた。
 鶴丸が駆け寄る間に、既に三日月は兵から愛しい子を受取ろうと手を伸ばす。兵もそれが当然である事の様に腕の中の子を寄越そうとした。だが、愛しい子の唇が綴った言葉に、三日月の手が止まった。鶴丸も思わず足を止めて立ち尽くす。
 「殺してくれ。」
 消えてしまいそうな幽かな声。この静かな低い声音を、鶴丸も知っている。だが、鶴丸の知っている声は、危うさを抱え乍も時に気迫の有る意思の強い声であった。
 鳥の子色の裾から、ぽつりぽつりと落ちたのは、雛罌粟の花か紅涙か。
 鶴丸は形振り構わず隻眼の兵に寄ると、「すまんな。」と一声かけて鳥の子色の裾を僅かに捲った。滲む朱殷に、言葉を失う。
 「守れなくて、ごめん。」と、隻眼の兵は頭を下げた。この兵も大変悔いているだろう事が、鶴丸にもよく分かっていた。そして、責めるべきはこの兵ではなく己であるとも。
 鶴丸は隻眼の兵から国広を受け取った。そして、琥珀を細め、虚ろな翡翠と笑いかけた。
 「俺はどんな君であっても好きだ。なに、心配は要らない。俺が良い医者を見付けてくる。」
 「うぬ、俺も医者を探そう。そなたの足が治ったら、皆で桃の園を見に行こう。俺も鶴と同じでな。そなたの事を好いておるのだよ。」
 藍に浮かぶ月も穏やかな笑みを浮かべれば、翡翠は僅か乍光を取り戻す。宛ら、磨き直された玉が如く。「俺でいいのか。」とおどおどとした様子で言うので、鶴丸も三日月も国広だから良いのだと笑った。
 間も無く、場の収集に追われていた国広の友人たちも集まって来る。国広の無事を知ると、加州は声を上げて泣いた。歌仙は国広を傷付けた男を七日七晩焼こうと言い出したので、慌てて隻眼の兵が宥める。
 最後にやって来た鶯丸が、「帰って、茶でも飲みたい。」と場に似合わぬ事を言ってのけ、剰え大包平の話冴え始めるので、気が付けば誰もが失笑していた。

***

 戦が収まり一つ月が過ぎた頃であろう。嘗て悪政を敷かれていた土地は、近隣に在る三条と粟田口とで手を施す事になった。三日月も土地の再生に尽力した。その間、「ぜひ会ってみたいですな。」と粟田口の一期一振が国広に関心を持ったのは、うっかり口を滑らせた鶴丸のせいだ。無論、一期一振にせよ鶯丸にせよ、そこに邪な物がないと分かっているが、三日月は悋気せずにはいられなかった。然し乍、三日月はその感情が必ずしも嫌いではなかった。石切丸に「人らしくなったね。」と笑われた時は、三日月もそれを素直に認めた。
 それから三日月は鶴丸と共に医者を探した。国を離れる事が出来ぬ故、遠方からやってくる旅人に尋ねたり、噂を聞けば使いを出して医者を呼び寄せた。
 国広も友に支えられ自ら歩み出そうとしている事を、三日月も鶴丸も知っている。国広を包む白花色の衣は、若い旅人二人によって元に戻った。旅の商人故直ぐに発たなければならないが、また必ず会いに来ると言った旅人は、国広に白花色の衣を残していった。その事は国広に大変希望を与えたのだろう。
 さて、そちら二人の兄は三日月と鶴丸を許してはくれたが、もう一人の兄は一筋縄ではいかなかった。否、今も手を焼いていると言っても過言ではない。自身を卑下する国広はそちらの兄を大変気にしていたが、それは杞憂に終わった。そう、今も苦戦を強いられているのは、三日月と鶴丸とであった。日を置かずして届く文には、よくも可愛い弟に手を出してくれたと飽きもせず綴られている。それがあまりに気迫に満ちた物である為、確かによく似た兄弟だと三日月は心中笑った。なお、その兄が実力行使に出ないのは、鶯丸や隻眼の男が上手く手を回してくれているからだろう。

 そして。

 天に浮かぶは弧を描く月。牀の脇に添えられた月下香が、甘美な香りを放つ。
 牀にちょこんと座った愛しい子。頭から被った白花色の衣を引き寄せ、朱に染まる顔を隠す。この子は基本的には無知で無垢だ。実際にこれから己がされる事など碌に分かっていないだろう。余りにも初心な物なので、三日月と鶴丸とで少しずつ乍知識を与えてきたのだ。そうでなければ、この状況にあり乍頬を染める事冴えもなかっただろう。
 「また次にするか?」と、三日月が尋ねれば、白花色の衣がひらひらと左右に揺れた。それから消えてしまいそうな声が告げる。
 「        。」
 幽かに紡がれる控え目な愛言葉。三日月は、鶴丸は、堪らず小さな小鳥を抱き締めた。

***

 後に人々はこう語る。
 或国には、月の様に美しい主と花の様に美しい家臣が居たと。
 然し乍、彼らに子は一人として有らず。代わりに、彼らには唯一人愛人が有った。
 それはそれは大変愛らしい愛人で、二人の男は一心にその人を愛したと。
 二人の男が愛した人。領巾で顔を隠すその人は、まさに閉花羞月であった。